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by うるとら

壬申の乱と身毛君広



 挙兵の拠点として美濃が選ばれたのはなぜなのか。

 谷川健一氏(民俗学者)は大海人皇子が美濃の不破を目指した理由について次のように述べられている。
 「そこが戦略的拠点であるという以外に、その周辺に武器の製造がおこなわれ、それが大海人皇子の豪族の勢力下にあったことが大きいと私は思う」(『壬申の乱の一考察』より)。





  (写真は、 いまの安八から眺める 「伊吹山」 5/3)


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 六七二年六月、大海人皇子の密命を受けた三人のトネリが吉野をたち、全速力で美濃に向かっていた。いずれも美濃出身のトネリばかり、身毛君広もそのなかの一人であった。
 「近江朝廷(大津宮)の家臣どもが私を滅ぼそうとしている。よってお前たち三人はすぐ美濃へ行き、安八麿(あはちま)郡湯沐邑(ゆのむら)の役人多臣品治(おほみほむじ)に告げ、まずその郡の兵を起こし、また美濃の諸軍を集め、速やかに不破の道を塞げ。私もすぐ出発する」。
 言葉どおり大海人皇子は二日後、吉野をあとに美濃へと出立した。が、この時の皇子の従者は女官を含め、その数五十を超えない少人数であった。しかし数ヶ月後、大海人皇子の大軍は朝廷軍を圧勝し、大勝利を得たのである。兵を伴わず近江から吉野に身を引いていた大海人皇子が美濃の軍平を頼みに挙兵したことは注目に値する。
 挙兵の拠点として美濃が選ばれたのはなぜなのか。直木孝次郎氏(古代史家)は、その理由を次のように推定される。
 美濃が古くから皇太子に準ずる皇子と深い関係を持つ地域であったこと。また、この地に健部(たけるべ)とか矢集連(やつめのむらじ)などの軍事的な氏姓や地名が残されていること。これらは、古代の美濃の皇子たちがに軍隊を供給する重要な地域であったことを物語っている。大海人皇子が美濃を挙兵の拠点とした意味は、この観点から考えなおす必要がある(『大化前代における美濃について』より)
 ところで、兵と武器(鉄)は時代をさかのぼるほど一体のものとして生産されていたはずである。谷川健一氏(民俗学者)は大海人皇子が美濃の不破を目指した理由について次のように述べられている。
 「そこが戦略的拠点であるという以外に、その周辺に武器の製造がおこなわれ、それが大海人皇子の豪族の勢力下にあったことが大きいと私は思う」(『壬申の乱の一考察』より)。




 大海人皇子に呼応する軍兵は日増しに増え、美濃不破の道は兵士のざわめきと鍛冶の鎚音に包まれていたにちがいない。武器の製造は、鉄の生産と直結していた。
 不破の道を見おろす伊吹山は、古代の製鉄(これをタタラという)と深く関係した山であった。原始の野タタラは強烈な自然の風を利用したという。"伊吹おろし"はこの地方の名物であり、この山の東南にある不破垂井町の南宮大社は、金属の神である金山彦命をを祭り、その祭礼は"ふいご祭り"とよばれている。この伊吹と同音の伊福部(いふきべ。五百木部などとも書く)とよばれた人々が産鉄の民であったことを確実に裏付けられたのも、谷川健一氏であった(『青銅の神の足跡』)。
 古代の戸籍に伊福(五百木)の名が最も多く登場しているのは美濃国であり、その数は他国を圧勝している。不破から大垣そして岐阜市にかけての一帯がタタラ製鉄の一拠点であったこととは、『岐阜市史』もこれを取り上げ、最も有力な説として供述している。
 谷川氏は、大海人皇子が美濃に急派したトネリの一人、村国男依(むらくにおより。各務ヶ原の豪族出身)が金属と深いかかわりを持つ士族の出であったことを詳論されている。 が、そのなかに、身毛君広に関する言及はみられない。壬申の乱の詳細を後世に伝えた『日本書紀』も、美濃に急派された後の身毛君広については全く沈黙している。
 野村忠夫氏(岐大教授)の著書『古代の美濃』の表現を借りて言えば、「身毛君広が美濃に馳せた後は、乱での動きを物語る資料がない。吉野方の地方豪族、農民一般の動きの中に埋没してしまって、その死去の年月すらつまびらかではないのである」
 私は彼もまた村国男依と同様、金属(鉄)に深くかかわった氏族の出ではなかったか、と思っている。この連載の目的のひとつは、その思いを書き記すことにある。しかし、ムゲツ氏が製鉄氏族と言い切るためには、長い迂回路をたどらねばならない。



水と犬と鉄 尾関章著 古代の中濃とムゲツ氏 中日新聞本社
by ultramal | 2006-05-06 21:19 | 水 犬 鉄