◎Ultraはウシトラのモジリ◎       


by うるとら

◆大海人こと蓋蘇文




天武も『書記』の序に「潜龍」など龍の属性で表現されている。「龍」は「雷」「青」「仁」「東」と共に五行思想で木徳であるが、天武は水との関係もある。天武は清御原天皇とも記されていて、これには「清き水原」の意味もある。そもそも大海人という即位前の名前からして、水と縁の深い人だった。



 龍は西アジアの伝承にも登場し、シュメール人は自らを「水の国の龍」と考え、さらにインド洋を航海するようになってからは「大海人」とも称したことはすでに述べた。『書記』によると天武は「生而有岐嶷之姿、及壮雄抜神武、能天文遁甲(生まれながらに人より抜きんでた姿であった。成年に及んでは雄々しく、神のごとき武勇があり、天文遁甲を能くした)」であった。つまり天武の風貌は威厳があり、逞しさ、雄々したは群を抜いていて、道教の範疇である占術と忍術に優れていた。
 これは伝説的な神武天皇を継いだ綏靖天皇の「天皇風姿岐嶷、少雄姿之気、及び壮容貌魁偉、武芸過人、而志尚沈毅(天皇は姿が人より抜きんでていた。幼少より群を抜いて雄々しかった。成年に及んでは大きく立派な体格で、武芸は人よりすぐれ、志は沈着剛毅だった)」と酷似した内容である。
 さらに綏靖天皇の諡号も「神渟名川耳」で、天武のオクリナ諡号「天渟中原瀛真人」に対応する。

 神 渟  名川  耳

 天 渟  中原  瀛  真人
  (水)(水)(水)

      大海     人

これはけっして偶然の一致ではなく、綏靖天皇が兄を殺したという記述は、天武(大海人)と天智(中大兄)の関係を示唆するものなのである。『書記』は中大兄の容貌については何も語らないが、大海人の場合は容貌、人柄、知識などについて詳しく述べている。そして「岐嶷之姿」は「いこやかなる御姿」と読み下されているが、「容貌が異国人のようであった」というのが真意であろう。
 また、朝倉宮で斉明天皇が不審な死を遂げた後、大笠をつけた鬼が『書記』に登場する。「オニ」には、半島や列島の古い言語で「大人」「目上の人」の意味がある。この記述は斉明元年の条にある「竜に乗って空を飛ぶ者がいた、そして容貌が唐人に似て、青い油笠を着て、西に向かって馳せ去った」という記述に対応する。この「唐人の容貌」とは中国ではなく、西アジア人の容貌の意味である。
 さらに「竜」「青」等々はすべて大海人を示す。ここで、『書記』の編纂者は、大海人が唐との軍事対決に反対した斉明の死と無関係ではなかった旨を後世に告げたかったのである。
 西は五行説では、金徳になるが、斉明が北九州で死んだ時点では、大海人は、大和から見て西の朝鮮半島で倭人と高句麗人の混成軍を指揮して唐と戦っていた。唐軍は高句麗の首都・平壌を包囲するが、高句麗で姿を見せなかった蓋蘇文が駆けつけて、唐軍を破る、不思議なのは、この戦いで捕虜になった倭人がいたことである。なぜ高句麗の首都の攻防に倭人が参加したのか?


◆蓋蘇文(伊梨柯須弥)とは誰か?


 韓国や北朝鮮では、唐に徹底抗戦した高句麗の英雄として、蓋蘇文の名は小学生でも知ってる。彼は自分の殺害を謀るとした栄留王と政府首脳を惨殺。高句麗を掌握して莫離支と称したことは、これまで述べてきた。
 この高句麗のクーデター事件は東アジア諸国を震撼させ、『書記』でも高句麗が「大臣の伊梨柯須弥(蓋蘇文)が大王(栄留王)を殺し、180人余りを殺した」と報告しているのである。
 蓋蘇文は権威を無視する傾向があり、唐の太宗は自国の使者が横柄な態度をとられたということに腹を立て、647年に高句麗征討をおこなったほどであった。結局、高句麗はその年の12月に謝罪として莫離支・高任武を唐に派遣する。「莫離支」を自称するのは蓋蘇文だけだから、蓋蘇文自身が高句麗を王の次男と称して、長安に赴いたことになる。「任武」は「水中王」の意味ともなり、蓋蘇文は「水中の龍から生まれたと自称して人々を惑わした」とあるように、常に水中王とか「龍」を自称していた。それは出自不明だったためでもあるようで、何らかの理由で早く親元を離れ、かなり広範囲に各地を放浪したらしい。各地に蓋蘇文と思しき伝承が残るなど、仏教が栄えた中央アジアの亀茲国を含む広い範囲にわたって、蓋蘇文の足跡がうかがえる。
 蓋蘇文の容貌について、『旧唐書』には、「鬚貌魁偉、形體魁傑」つまり鬚が濃く、彫りの深い容貌で、身体つきは逞しく立派だったとある。そして興味深いことに、このくだりは『書記』「綏靖記」の「容貌魁偉」と同じ意味で、これは8世紀初頭の『書記』編纂者が『旧唐書』の内容を知っていて、故意に似せて書いたとしか考えられない。
 蓋蘇文は「水中で龍から生まれた」などと自称、身に五刀を佩し、儒学者を踏み台にして馬に乗ったとか、外出する際は必ず、隊伍を組み、先駆けが蓋蘇文の名を呼ぶと逃げない人はいなかったなどとも伝えられてる。ひとたび怒りだすと、周囲の者は震え上がったが、見栄や外聞にこだわらず、平気で部下と一緒にゴロ寝するなど豪放で、軍内部の人望は高かったらしい。
 蓋蘇文の姓は泉もしくは蓋であったとされるが、姓を蓋、名は金、位は蘇文ともいい、蓋金と名乗ったという記述もある。さらに蓋は羊と皿の合わさった「盖」とも書いた。羊は『新約聖書』では「弱き者」「キリスト」の象徴とされ、同時にペルシャにおいては王権の象徴でもあった。キリスト教はペルシャのゾロアスター教の影響が強いから、『新約聖書』は「羊」と言いつつ「世界の支配者」を示しているのである。
 蓋蘇文は、先祖の地と考えられる西アジアにも、強い人脈があった。事実、唐代には高句麗と呼応して後、しばらく居所が不明となるが、西から唐国を攻める同盟国を求めて中央アジア諸国を外交遍歴していたと見られる。『新唐書』によると、当時河西回廊北部にあった回鶻と連合して、唐国を攻撃する計画があったという。
 『三国史記』にある蓋蘇文の「死」は、信憑性は非常に薄い。高句麗で死んだとされる年代すらまちまちであり、死因も記されていない。ところが『書記』には蓋蘇文が高句麗に残した息子たちへの遺言までが記録されている。遺言は高句麗の記録には見えないから、この『書記』の記述は、蓋蘇文が実は列島に甚大な影響を残した人物であることを示すものといえる。
 百済の義慈王のもとで高官だった鎌足や新羅・文武王同様、蓋蘇文も本国では死んだことにして、他国に移住したとしても不思議はない。
 蓋蘇文は儒教にまったく興味を示さず、ある時、「中国では儒教、仏教、道教があるのに高句麗には道教がない」などと言って、宝蔵王をして中国に書を送らせ、道士や道徳経を求めたと言う。すると蓋蘇文は、高句麗の事実上の独裁者でありながら、道教やその範疇である戦術や忍術を学んだことになる。
 道教は神仙思想であり、紀元前3世記に中国で始まったとされているが、それよりもさらに古くから伝わる西方の占星術が加味されて成立した可能性は否定できない。




◆名前に隠された真相


再度、綏靖天皇と天武天皇の和風諡号を高句麗の蓋蘇文と比較対比させると、次のような絶妙な関係になる。


 神 渟  名川  耳

 天 渟  中原  瀛  真人
   淵(泉)蓋蘇 文
   伊梨 柯須 弥   

  (水)(水)(水)

      大海     人

 高    任      武

蓋蘇文は長安に行った時、高任武と自称したが、「高」は高句麗の王姓で、「任」の字は「人」と「壬」から構成される。「壬」は五行説で言うと「陽の水」つまり「大海」である。ここにニンベンがついて「任」の一文字でも「大海人」となる。この「大海人」は、言うまでもなく倭王として即位する前の天武の名であり、「任武」を示すなでもある。
 蓋蘇文の蘇文(som )は「黄金」を意味する高句麗でもあり、蓋蘇文の名は「水中の金」を意味する。蓋蘇文の字は「金海」である、ここにも海がある。
『書記』白雉五年二年の条の古注に「高黄金等が今年、使人とともに帰る」とあり、この「今年」は大海人が皇弟として初めて『書記』に登場する653年におおむね一致する。
 蓋蘇文が長安で「高任武」と称した以上、叔父である百済・義慈王のみならず、高句麗・宝蔵王とも少なく縁戚関係がある。蓋蘇文が名乗った「淵(泉)蓋蘇文」「莫離支」「蓋金」「高任武」「金海」などいずれも「大海人」「天武」と深く関係している。
 さらに蓋蘇文と大海人は両者とも伽耶に関係している。蓋蘇文の幼名「金海」は金官伽耶のことであり、大海人こと蓋蘇文の母親の斉明、そして金庾信一族にゆかりの土地である



 古代天皇家と日本正史―現人神と万世一系の超秘密
 【著】中丸 薫
[PR]
by ultramal | 2006-07-20 00:58 | 古代天皇家と日本正史