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◎Ultraはウシトラのモジリ◎       


by うるとら

伊富岐神社

  写真:http://ultra3040.exblog.jp/2533611/



祭神 4説あるとのこと・・・


イ).多多美彦命
   夷服(伊吹)岳神


ロ).八岐大蛇(伊吹山の荒神が化けた大蛇神)
   膽吹山有荒神 
   ↑たん、きも

   出雲にて素盞鳴尊に害せたりし
   八岐大蛇、天降り……毒蛇となりて不破関の大路を伏塞ぎたり。
   
     壬申の乱にて「不破の関」を塞いだのは大海人

   (ちなみに、天のヤチマタで道を塞いでいたのは、サルタヒコ命)


ハ).天火明命
   伊福氏の祖先は尾張氏と同祖 


ニ).鸕鷀草葺不合尊 ウガヤフキアエズ







<式内社神社報告第十三巻より>

【社名】

「イフキノ」、「イブキノ」と訓んでゐる。
「伊冨貴神社」(『美濃國式内神杜祭神記』)
現在、當地では「イブキ」と呼んでゐる。

【所在】

不破郡垂井町岩手字伊吹一、四八四番地


【祭神】
明治初年の『特選神名帳』は祭神を記していないが、古来 イ)、ロ)、ハ)、ニ)、の四説あり、『不破郡史』下巻(昭和二年刊)に比較的詳しく紹介されている。以下はそれを参照しながら、各々のおもな論拠を略術しよう。

イ)多多美彦命とする説
『帝王編年記』養老七年條に、「古老 日……又云、霜速比古命之男、多々美比古命、是謂夷服岳神也。……」とみえ、多々美比古命を「夷服(伊吹)岳神」と傳へてゐる(『伊呂波字類抄』『竹生島縁起』には「気吹雄命」とみえる)。これによつて、平田篤胤の『古史傳』や栗田寛の『神祇志料』等は、「多々美比古命命、亦名伊吹雄命を祀る。」とする。

ロ)八岐大蛇とする説
日本書紀景行天皇四十年條に、「日本武尊……聞近江 膽吹山有荒神、即……至膽吹山神化大蛇當道。……」とあり、『平家物語』に「出雲にて素盞鳴尊に害せたりし八岐大蛇、天降り……毒蛇となりて不破関の大路を伏塞ぎたり。.……さる程に八岐の大蛇伊吹大明神は尊(日本武尊)に跳り越えられ…」とみえる(『雲州樋河上天淵記』『伊福貴神社縁起』等も同趣)。これによつて、林羅山の『本朝神社考』や白井宗因の『神社啓蒙』等は、「伊吹神社所祭之神一座、八岐大蛇之所變。」としてゐる。

ハ)天火明命ととする説
新撰姓氏録 左京神別に、「伊福部宿彌、尾張連同祖、火明命之後也。」とみえ(大和國神別の「伊幅部連」、山城國神別の「伊福部」等も同祖)、吉田東伍博士の『大日本地名辞書』第五巻に、「伊吹神社ありて、野上の民も之を氏神とす。蓋し古姓氏に尾治(尾張に同じ)・伊幅部(五百木部、蘆城部にも作る)ありて實に同族とす。……尾治・伊福神二氏の祭れる者たること明瞭也」。と記されてゐる。また『不破郡史』下巻によれば、「古來、伊富岐神杜は、奥の院(本殿)を正一位伊福大明神とし、境内神社に、①正四位下伊福貴一御子明神、②正四位下二御子明神、③正四位下三御子明紳、④從五位上四御子明神、⑤従五位上五御子明紳、⑥従五位上六御子明神、⑦従五位上七御子明神、⑧従五位上八御子明神、⑨従五位上九御子明神を祭れるが、 憶ふに奥の院の正一位伊福大明神は即ち天火明命に當て、以下一御子明神より九御子明神までは、 ①天香語山命より(②天村雲命、③大忍人命、④天戸目命、⑤建斗米命、⑥建旧背命、⑦建諸隅命、⑧倭得玉彦命) ⑨若都保命まで九代を當てたるなるべし」といふ。

ニ) 鸕鷀草葺不合尊とする説
『美濃國雑事記』『美濃明細記』『新撰美濃志』および『美濃國式内神社祭神記』など、いづれもこの説であり、件信友の『神名帳考證』も、『百莖根』を引いて「祭紳ウガヤフキアヘズ尊」とする。




 さて、右四説のうち、ニ)は論據不明であつて、江戸時代の一傳承といふ域を出ない。それに對して、イ)とロ)は「伊富岐神」を伊吹の山神(「夷福岳神」「膽吹山荒神」)と據へ、 ハ)はそれを伊福部氏の祖神と考へるもので、各々に一理ある。そのためか、昭和二十七年の神社明細帳では、祭神の欄に「多々美彦命」と記しながら、由緒の欄には「火明命ノ孫伊福氏ノ人本貫ナレバ、同氏等ガ氏神トシテ創祀セシナルベシ」と記してゐる。同四十四年発行の『垂井町史』通史編では、祭神に敢て言及してゐない。
 從つて、現時 でも祭神は「伊富岐神」といふほかないのであるが、右のイ)、ロ)と ハ)は必ずしも無縁な存在ではない。それところか、伊吹山と伊福部氏とは密接な闘係にあるとみられる。吉來「伊福部」(五百木部)の性格については、様々に説かれてきたが、注目すべきは製鐵(鍛造)職業部とみる説である。すなはち、前川明久氏は、樋口清之博士らのごとく、伊福を「息吹」と解し、製錬用の高熱をうるための送風装置「踏鞴と結びつけ、「美濃における伊福部の分布地域の立地條件をみると……いわゆるイブキオロシの吹く地域で……伊福部の名稱は、この風を利用し熔解炉の火を高熱にするため吹きいれることから拠ったのではなかろうか。……大場盤雄氏によれぱ、滋賀縣坂田郡伊吹村金山付近に露天掘の…石鐵採堀址が発見され、その付近に鐵滓・フイゴ.火口なとをともなう古墳時代の製鐵所址をも発見したという。……美濃の伊福部は伊吹山の産鐵(のみならず他地方産の鐵もふくめて)を原料として武器の鍛造にあたっていたのではなかろうか。」(「壬申の乱と湯沐邑」『日本歴史』第二三〇號)と推測してをられる。また眞弓常忠氏も、「本來の職掌は、吹子によるタタラ炉の操作にあり、製鐵技術者集団を部民として管掌する氏族であった」「南宮大杜を中心とする美濃國の鐵生産は、五世紀中葉以後、勝氏ら鮮化歸化系技術者を含む製鉄集団によって行われ、彼らは尾張氏の族である伊福部氏の管掌するところであった」(『日本古代祭祀の研究』所収「古代製鐵祭祀の神々」)と推測してをられる。
 ただ、當地が産鐵地であつたわけではなく、伊福部氏の居住地と製鐵遺跡の関係も未だ充分に立証されてゐない。そこで野村忠夫氏は、佐伯有清・直木孝次郎兩博士らのごとく、伊福部を「火吹部」と解し、「天皇や皇族の食先饌を煮焚し湯を用意する職についていたもの」「それが天皇や皇族に近侍する職業柄、天皇の側近謹衛の任にあずかることにもなつたのであろう。」(『岐阜縣史』通史編・古代「大化前代の濃飛地方」)と推測してをられる。ただ、この説では上番した伊福部(君)の職務を説明しえても、在地の伊福部が何をする"火吹部"なのか不閉である。この点、むしろ「火吹」は「タタラ炉の火を吹く技術に由來する」(眞弓常忠氏『日本古代祭祀と鐵』)と解すれぱ、伊吹山に近い當社付近を本居地とする伊福部氏の職務も、當地が壬申の乱の軍事的據點とされた理由なども、おのづと理解できる。とすれば、「伊富岐神」は、伊福部氏の奉ずる火明命とみてよいのではないかと思はれる。

【由緒】創建年代は未詳であるが、伊福部氏は、壬申の乱以前から當地を中心に勢力を張つてゐたと考へられるので、その氏神を祀る杜は早くから建てられてゐたと思はれる。平安時代に人ると、仁壽二年(八五二)十二月癸亥「美濃國伊富岐神」を官社に列せられ(文徳天皇賽録)、ついで貞観七年(八六五)五月八日、従五位下から從四位下とされ、さらに元慶元年閏二月二十一日、従四位上を授げられてゐる(三代実録)。延喜式では、大領神社と同じく小社とあり、『美濃國神名帳』では大領神社を越えて「正一位伊富岐大明神」とされ、いつしか南宮神社につぐ美濃の二宮とみられるやうになつた。同帳には、正四位下~從四位上の御子神(苗裔神)九座も記されてゐるが、その合祀時期は不明。なほ、康和五年(一一〇三)六月十日の神祇官謹奏に「坐美濃園、大領神・伊波乃西神・伊富岐神……社司等依過 神事、  、遺使科中祓、可令祓清奉仕事云々」(一朝野群載』巻)とみえる。

後略
by ultramal | 2006-08-01 22:35 | 南宮