伊勢神宮の起源
2006年 08月 02日
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書紀の文章は「常世の浪の重浪」がうち寄せるという場所、つまり「常世」につづく海岸が条件となっている。海のない大和国内では「常世」という神仙思想とむすびつかないのである。おも「常世の浪がうちよせる東方(大和からみて)の是の国にわれは居らんと欲う」という言には、神仙思想のみがあるのであって、太陽信仰はみられない。
また、右の天照大神の託宣には、この伊勢の国を「傍国」といっている。「傍国」は倭人伝にも「其他芽国」と出ているように、わきにある国、地方の国の意味で、もちろん大和からみて伊勢が地方の国というのである。
伊勢神宮の起源
では、どうしてそんな地方に皇祖神をまつる伊勢神宮を持っていったのか。書紀はその理由を崇神六年の条で説明している。天照大神とや倭大国魂(出雲系の信仰)とを宮殿にいっしよに祀っていたところ、両神は共に住むのを好まず、っまり仲が悪いため、国内に疫病が流行した。よって天照大神は大和の笠縫邑らに祭り、大国魂は三輪山に祭った。
大国魂は大田田根子という出雲系の司祭がついてそこにおさまったが、天照大神のほうは笠縫うだ邑には落ちつけずに、倭姫命の捧持で、菟田、近江国、東美濃をめぐって伊勢国に入り、(前記)の「伊勢国は常世の浪の」という託宣となって)五十鈴川の川上に斎宮をたてた。「これを磯宮と謂ふ。すなはち天照大神の始めて天より降ります処なり」(垂仁紀二十五年)。
まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰) まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰)の宮である。斎宮を磯宮といったのではなく、磯宮に斎宮が宿かりしたのである。
伊勢湾の沿岸は漁携生活煮いわゆる海人族の根拠地であった。いまの三重県度会郡の地はもと「磯」といったらしい。国名のイセ(伊勢)もイソ(磯)からきているようである。イズズ(五十鈴川)の名も、イソから出ていると思われる。イソツ川一磯津川。津は助詞の「の」)=イセツ川だったのを後世に神話じみた「五十鈴川」の字を宛てたのであろう。
この磯の地一帯を支配していたのが礁携生活集団の首長の度会氏である。この度会氏一海人族一の共同神が磯宮である。
柿本人麻呂の長歌にある「渡会の斎の宮」(『万葉集』一九九)というのが、度会の磯宮に天照大神の斎宮が宿かりしていたときの姿を浮かばせている。これを大海人皇子が壬申の乱で望拝したことになっている。
ワタラヒ(度会)は朝鮮語のワタ(pata=海)からきている。海を横切るのをワタル(渡る)というのもこれの動詞化である。伊勢は「百船の度逢県」(『古事記』)であった。
壬申の乱で大海人方に神威が加勢したというので、度会の磯宮にある斎宮が朝廷の崇敬するところとなり、伊勢神宮になった、と普通は説かれている。
内宮と外宮
この磯宮は、朝廷がつくった伊勢神宮に内宮ができたとき、外宮となった。内宮が海岸から十数キロはなれた山の谷間の伊勢市宇治にあるのに対し、外宮が海岸に近い伊勢市山田にあるのは古いかたち一磯宮一を示している。
では、朝廷はなぜ磯宮を内宮とせずに、それより格が一段劣る外宮にしたのか。それは度会氏の氏神ともいうべき磯宮一斎宮一をそのまま伊勢神宮に昇格させたのでは皇室の権威にかかわるので、天照大神がこの地に天降ったということにして新たに内宮をつくったのである。内宮の神官に朝廷は度会氏と拮抗する土地の中豪族荒木田氏(その祖は大和からきて土着し、成務天皇のとき、神宮の御料田を寄進した功で荒木田神主姓をたまわったという)を任じた。これは朝廷が伊勢神宮の前身が磯宮だというイメージを払拭することと、度会氏の勢力を削ぐことの二つの目的からである。
度会氏は神宮ができたときから内宮・外宮の神事を独占したと、その古さを主張しているのにたいし、荒木田氏は内宮の成立当初から神事にしたがっていたと主張する。長いこの「論争」は性質上決着をみないが、度会氏は磯宮の斎宮が外宮になったときからの神事をつかさどり、荒木田氏はあとから内宮ができたときからの神官とみるべきだろう。荒木田氏の主張が外宮にふれないのはそのことを証するようである。
荒木田氏は中央の中臣氏と結托し、系譜の上からも中臣氏の支流をつくっているが、度会氏のは中央貴族とは無縁の独自の系譜である(岡田精司『伊勢神宮の起源と度会氏』による)。このことからも度会氏のほうが土地の古い豪族、つまり伊勢湾漁携集団の首長の流れである。度会氏は「磯部」姓も名乗っていたことが『続日本紀』にも見える。磯部の姓は磯宮との関係でわかりやすい。
外宮が内宮よりも古いと思われることは、伊勢神宮の大祭では、まず外宮から神饌供犠の祭りがはじまることでもわかる。これを神宮先祭という。荒木田氏はなんとかして先祭の特権を外宮から内宮に取ろうと図ったが、度会氏ががんとして拒絶してきた。いらい両神官家の争いは明治になるまでつづいている。
では、天照大神が内宮に坐すなら、外宮はどういう神を祀っているかというと、豊受神が主座である。だが、この豊受神というのは系統不明の神で、『古事記』には登由字気神の下に注のかたちで「こは外宮の度会に坐す神ぞ」と書き入れてある。これは記のもとの文にはなく、後から挿入したらしい。
豊受神というのは食物の神で、この場合は稲(米穀)の神さまということになっている。しかし、天照大神を内宮に持ってゆかれたので、やはり外宮は分がわるい。
次に、伊勢神宮の設立を大和朝廷が東国経営の拠点にするためだったという説がある。この説の根拠の一つは、美濃・尾張・三河の各国に伊勢の神領があるというのである。しかし、これは伊勢神宮が朝廷の権威で大きくなるにつれて神領がふえていったのであって、武力経菅とは関係がない。
またヤマトタケルが東国征伐に出発の途次、伊勢神宮の斎女をしている叔母のヤマトヒメのもとに行き、神宮を拝した(景行紀)というのが根拠の一つになっているが、これは参拝だけであって、ここを武力の根拠地としたとはない。それにヤマトタケルが伊勢神宮に立ち寄ったのは、「西の熊襲を討って帰るとすぐに東の方十二道の悪人らを平らげよと命じられる天皇は、わたしが死んだらいいとでも思っておられるのか」という不満と歎きを叔母に洩らす(『古事記」。書紀には無し)のが主目的だったのである。
東国経営の根拠地とするには伊勢神宮のある場所は南に下りすぎる。東国平定は海路でなく陸路だから、熱田神宮のある名古屋あたりなら合点がゆくが、伊勢ではうなずけない。たとえば東国に軍隊を送るのに、伊勢湾を輸送船団が横断して渥美半島や知多半島に上陸させたという記事は見あたらない。すべて内陸寄りの道(東海道はまだできていない)で、その主要コースは美濃・信濃.毛野(群馬県)となっている。ここは古代の交通路で、中期古墳もこのコースに集中している。
要するに伊勢神宮の設置は、海をもたない大和朝廷が東方の伊勢に海の宮をつくって祖廟としたということであって、それは西の瀬戸内海に漁携生活集団(安曇族)の共同祖霊である胸形(宗像)神杜と住吉神社とを信仰したのとなんら変わりはない。度会氏もまた阿曇族である(伊勢の潜水海女を見よ)。
それがとくに伊勢神宮となったのは、前述のように中国の神仙思想の影響が強い。「太陽信仰」や「東国経営」をあまり過大視してはならないと思う。
『壬申の乱』 松本清張著 清張通史5
講談社 文庫 1988より
書紀の文章は「常世の浪の重浪」がうち寄せるという場所、つまり「常世」につづく海岸が条件となっている。海のない大和国内では「常世」という神仙思想とむすびつかないのである。おも「常世の浪がうちよせる東方(大和からみて)の是の国にわれは居らんと欲う」という言には、神仙思想のみがあるのであって、太陽信仰はみられない。
また、右の天照大神の託宣には、この伊勢の国を「傍国」といっている。「傍国」は倭人伝にも「其他芽国」と出ているように、わきにある国、地方の国の意味で、もちろん大和からみて伊勢が地方の国というのである。
伊勢神宮の起源
では、どうしてそんな地方に皇祖神をまつる伊勢神宮を持っていったのか。書紀はその理由を崇神六年の条で説明している。天照大神とや倭大国魂(出雲系の信仰)とを宮殿にいっしよに祀っていたところ、両神は共に住むのを好まず、っまり仲が悪いため、国内に疫病が流行した。よって天照大神は大和の笠縫邑らに祭り、大国魂は三輪山に祭った。
大国魂は大田田根子という出雲系の司祭がついてそこにおさまったが、天照大神のほうは笠縫うだ邑には落ちつけずに、倭姫命の捧持で、菟田、近江国、東美濃をめぐって伊勢国に入り、(前記)の「伊勢国は常世の浪の」という託宣となって)五十鈴川の川上に斎宮をたてた。「これを磯宮と謂ふ。すなはち天照大神の始めて天より降ります処なり」(垂仁紀二十五年)。
まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰) まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰)の宮である。斎宮を磯宮といったのではなく、磯宮に斎宮が宿かりしたのである。
伊勢湾の沿岸は漁携生活煮いわゆる海人族の根拠地であった。いまの三重県度会郡の地はもと「磯」といったらしい。国名のイセ(伊勢)もイソ(磯)からきているようである。イズズ(五十鈴川)の名も、イソから出ていると思われる。イソツ川一磯津川。津は助詞の「の」)=イセツ川だったのを後世に神話じみた「五十鈴川」の字を宛てたのであろう。
この磯の地一帯を支配していたのが礁携生活集団の首長の度会氏である。この度会氏一海人族一の共同神が磯宮である。
柿本人麻呂の長歌にある「渡会の斎の宮」(『万葉集』一九九)というのが、度会の磯宮に天照大神の斎宮が宿かりしていたときの姿を浮かばせている。これを大海人皇子が壬申の乱で望拝したことになっている。
ワタラヒ(度会)は朝鮮語のワタ(pata=海)からきている。海を横切るのをワタル(渡る)というのもこれの動詞化である。伊勢は「百船の度逢県」(『古事記』)であった。
壬申の乱で大海人方に神威が加勢したというので、度会の磯宮にある斎宮が朝廷の崇敬するところとなり、伊勢神宮になった、と普通は説かれている。
内宮と外宮
この磯宮は、朝廷がつくった伊勢神宮に内宮ができたとき、外宮となった。内宮が海岸から十数キロはなれた山の谷間の伊勢市宇治にあるのに対し、外宮が海岸に近い伊勢市山田にあるのは古いかたち一磯宮一を示している。
では、朝廷はなぜ磯宮を内宮とせずに、それより格が一段劣る外宮にしたのか。それは度会氏の氏神ともいうべき磯宮一斎宮一をそのまま伊勢神宮に昇格させたのでは皇室の権威にかかわるので、天照大神がこの地に天降ったということにして新たに内宮をつくったのである。内宮の神官に朝廷は度会氏と拮抗する土地の中豪族荒木田氏(その祖は大和からきて土着し、成務天皇のとき、神宮の御料田を寄進した功で荒木田神主姓をたまわったという)を任じた。これは朝廷が伊勢神宮の前身が磯宮だというイメージを払拭することと、度会氏の勢力を削ぐことの二つの目的からである。
度会氏は神宮ができたときから内宮・外宮の神事を独占したと、その古さを主張しているのにたいし、荒木田氏は内宮の成立当初から神事にしたがっていたと主張する。長いこの「論争」は性質上決着をみないが、度会氏は磯宮の斎宮が外宮になったときからの神事をつかさどり、荒木田氏はあとから内宮ができたときからの神官とみるべきだろう。荒木田氏の主張が外宮にふれないのはそのことを証するようである。
荒木田氏は中央の中臣氏と結托し、系譜の上からも中臣氏の支流をつくっているが、度会氏のは中央貴族とは無縁の独自の系譜である(岡田精司『伊勢神宮の起源と度会氏』による)。このことからも度会氏のほうが土地の古い豪族、つまり伊勢湾漁携集団の首長の流れである。度会氏は「磯部」姓も名乗っていたことが『続日本紀』にも見える。磯部の姓は磯宮との関係でわかりやすい。
外宮が内宮よりも古いと思われることは、伊勢神宮の大祭では、まず外宮から神饌供犠の祭りがはじまることでもわかる。これを神宮先祭という。荒木田氏はなんとかして先祭の特権を外宮から内宮に取ろうと図ったが、度会氏ががんとして拒絶してきた。いらい両神官家の争いは明治になるまでつづいている。
では、天照大神が内宮に坐すなら、外宮はどういう神を祀っているかというと、豊受神が主座である。だが、この豊受神というのは系統不明の神で、『古事記』には登由字気神の下に注のかたちで「こは外宮の度会に坐す神ぞ」と書き入れてある。これは記のもとの文にはなく、後から挿入したらしい。
豊受神というのは食物の神で、この場合は稲(米穀)の神さまということになっている。しかし、天照大神を内宮に持ってゆかれたので、やはり外宮は分がわるい。
次に、伊勢神宮の設立を大和朝廷が東国経営の拠点にするためだったという説がある。この説の根拠の一つは、美濃・尾張・三河の各国に伊勢の神領があるというのである。しかし、これは伊勢神宮が朝廷の権威で大きくなるにつれて神領がふえていったのであって、武力経菅とは関係がない。
またヤマトタケルが東国征伐に出発の途次、伊勢神宮の斎女をしている叔母のヤマトヒメのもとに行き、神宮を拝した(景行紀)というのが根拠の一つになっているが、これは参拝だけであって、ここを武力の根拠地としたとはない。それにヤマトタケルが伊勢神宮に立ち寄ったのは、「西の熊襲を討って帰るとすぐに東の方十二道の悪人らを平らげよと命じられる天皇は、わたしが死んだらいいとでも思っておられるのか」という不満と歎きを叔母に洩らす(『古事記」。書紀には無し)のが主目的だったのである。
東国経営の根拠地とするには伊勢神宮のある場所は南に下りすぎる。東国平定は海路でなく陸路だから、熱田神宮のある名古屋あたりなら合点がゆくが、伊勢ではうなずけない。たとえば東国に軍隊を送るのに、伊勢湾を輸送船団が横断して渥美半島や知多半島に上陸させたという記事は見あたらない。すべて内陸寄りの道(東海道はまだできていない)で、その主要コースは美濃・信濃.毛野(群馬県)となっている。ここは古代の交通路で、中期古墳もこのコースに集中している。
要するに伊勢神宮の設置は、海をもたない大和朝廷が東方の伊勢に海の宮をつくって祖廟としたということであって、それは西の瀬戸内海に漁携生活集団(安曇族)の共同祖霊である胸形(宗像)神杜と住吉神社とを信仰したのとなんら変わりはない。度会氏もまた阿曇族である(伊勢の潜水海女を見よ)。
それがとくに伊勢神宮となったのは、前述のように中国の神仙思想の影響が強い。「太陽信仰」や「東国経営」をあまり過大視してはならないと思う。
『壬申の乱』 松本清張著 清張通史5
講談社 文庫 1988より
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