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by うるとら

金華山物語

伝説の巻 清 信重

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代の石器、土器の類でも、これらを保存する能力に欠けている。いまでもドライヴ・ウェーの工事などで古墳らしいものにぶつかるが出土品としては見るべきものがすくなくない。
 山の古さは日本創生に時を同じくするが、濃尾平野はまた陸地として、一番若い地質に属している。これは木曾、長良、揖斐の三川が山から運んだ流砂土から出来ており、かつは今現在進行申の過程でもある。かっては濃尾平野の大部分は伊勢湾に属していた。養老郡の城山には貝塚があり、人間時代のある時この辺が淘辺であった証拠を提出している。つまり金華山のふもとは海岸だった。岐阜付近の侯説に「稲葉山から赤坂までを七里の渡しと呼ぶ」とおりまた鏡島乙津寺伝には「鏡島はもと、乙捧島といいしを弘法大師が鏡を海中に投じて陸にした」ともいう。


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 太古の山には名はなかった。やがて人が住み、書かれた歴史の時代になると、ぼつぼつ名がでてくる。この山の名を古くは「いなば山」とよんだようである。
 「いなば」 というのは必ずしもここだけではない。「いなのばの白兎」の伝説は海を渡るのだからここのことではない。たから古い記録にでてくる「いなば」もよく吟味してみる事が必要てあろう。
 
  たちわかれ  いなばの山の峰におふる
  松としきかば いま帰りこむ


というのは百人一首に出てくる在原行平の歌であるが、これがこの山をいうとの説がある。これには異説もあるから行平にきかねばわからないが、それ以後の歌には「不被の関」と一緒に読みこんだものもあり、それからみてこの名の古いことを知ることができる。この「いなば山」に対して、ほかに「金花山」「一石山」「破鏡山」「岐山」たどの名もある。それらに関する伝説を列記しておこう。


 仁明帝のころ、申納言在原行平は天皇の命によって、陸奥の国から金化石をひかせて美濃についた。この時、蔵王権現の神託により、石をそこにおいたまま行平は京へ上った。その後この石を金大明神という。

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 金神社縁起には次のようにいう―景行天皇のころ、三種の神器のひとつ「むらくもの剣」が夜になるとぬけだす。うらないによれば「奥州に金石あり、これに心をうばわれて」というので、この金石を京都へとりよせることになり、イニシキのミコトが奥州に下向。来てみると同形の石八個があつて、どれが金石かわからないが亡き母君の教えで鏡を当てると、金石は鏡を破るという。これによって金石を得、かつがせて京都に向うことになった。この間天皇につげ口をするものがあり、京都からはミコトを討つための軍が出るの始末だ。美濃へ来たときこの金石を椿原(今の丸山)におさめて合戦におよんだ。その時、石はたちまち三十六丈の山となりミコトと若宮はこの山に入り行方はわからなくなった。天皇はこの始終をきかれ、椿原金山のふもとに社殿をつくり給うた。これが伊奈波神社の始まりであると
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 ほかに一石山に関して --むかし雄総に男あり、父から勘当されて、諸国を放浪し奥州の金華山において後悔し記念の石を一個持ち帰ったところ、父はこれをウソだとののしって、力まかせに投げた。石は人にふまれるのをきらって、一夜のうちに山となったという。
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いずれも奥州の金華山に関係あるようなそぶりがあるのは、どうしたことか。奥州金華山の名はすでに高く古いということはいえそうてある。
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by ultramal | 2006-08-12 13:58 | 伊奈波