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by うるとら

伊奈波神社縁起巻物から



□ 伊奈波神社の創祀 □


『美濃国第三宮因幡杜本縁起』の伝えるところによれば、


  1. 景行天皇が武内宿禰を派遣し、五十瓊敷入命一族を祀る社壇を椿原金山麓に祀ったという。
  2. その後、天下分け目の占代最大の内乱、壬申の乱の際、武略の神として神験を顕わして厚見郡を御神領として定められた。
  3. 椿原は稲葉山(因幡山・伊奈波山)の西麓、現今では丸山と称する小丘上で、境外摂社丸山神社の社地が旧鎮座地である。
  4. 社名は現在、伊奈波神社と称されているが、古くは(因幡)との社名であった。


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藤原朝臣経朝が康元年中、当社の額を書く際、正一位因幡大菩薩と載せたとあるが、康元年中ではなく文永四年(一二六七)であり、大菩薩でなく「正一位因幡大神」である。現在、経朝の神額(35×68cm)が遺されているが、それは「文永四年丁卯姑洗二日」と刻まれ、文永の役、つまり蒙古襲来であったことから伏敵祈願のものと見做されている。姑洗とは「陰暦三月に配す」ことである。このように、承和十二年(八四五)七月、〈伊奈波神〉と記述されていたのにかかわらず、この因幡を社名にしていた理由は明らかではない。『木曽路名所図会』には「因幡神社」の項に、「此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり」と伝えているが、『美濃国第三宮因幡社本縁起』の金石伝説の中に垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命は、勇猛果敢にして文武に優れ、因幡守に補任される。 と記されているので、ご祭神に因む社名であることは想像に難くはない。古社の由緒を示す文献としては、弘仁式、貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則としての『延喜式』五十巻がある。延長五年(九二七)に撰進したものであるが、その巻第九・十(神祇十)に「神名帳」があり、この巻第九.十に登載される神杜を「式内杜」といい、厚見郡所載の三座は比奈守神杜、茜部神杜、物部神杜である。

伊奈波神杜は『延喜式』の「神名帳」に記載されていないが、京都・吉田杜権預・鈴鹿連胤の著した『神社覈録』下(同朋会・昭和四十六年七月二十日刊)に、物部神社を次のように記している。

物部は毛乃々倍と訓べし、
祭神五十瓊敷入彦命、渟熨斗媛命、日葉酢媛命、十千根命、
社説、岐阜稲葉山に在す。古今因幡明神と稱す。

といい、『延喜式』に収載する物部神社は伊奈波神杜であることは『伊奈波神社略史』に詳述されているところである。南宮大杜も同式に仲山金山彦神社と登載しているように、伊奈波神杜を物部神杜とあっても不都合ではない。

因みに、仲山金山彦神社の「仲(中)山は中国の『山海経』の一つ「中山経」が産鉄の世界をあらわしたもの」(真弓常忠著『日本古代祭祀と鉄』・学生杜・昭和五十六年十二月二十五日刊)で製鉄の神金山彦命を祀り、美濃国一宮と称されている。
 文化二年(一八〇五)版行になる『木曽路名所図会』にも、

  厚見郡岐阜稲葉山の麓に鎮座あり、延喜式云、物部神杜、物部氏の祖也。

とある。また次いで、
 当社はじめ伊奈波山椿原に鎮座し給ふ。天文八年のころ、齋藤秀龍城を築く時、今の地に遷座ある。又土人の諺に云、此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり。と伝承している。 一方、『美濃国神名帳』に記載され、物部十千根命を祀る従五位下物部神社は、稲葉山南麓の長森岩戸に鎮座していたが、齋藤道三が稲葉山を居城とするに際して伊奈波神杜に合祀されることとなったと伝えられる。

ここで、伊奈波の神と物部氏との関わりについてもふれておきたい。
伊奈波の神は、垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命で、『日本書紀』垂仁天皇三十年春正月の条によれば、垂仁天皇から五十瓊敷入彦命は弓矢、、すなわち武具を司どることを命じられ、後述するように回二十九年冬十月の条に、劔一千口を作り、石上神宮に蔵め「王権の武器庫」としての石上神宮の神宝の管掌を命じられたと記されている。同八十七年春二月の条には五十瓊敷入彦命が管掌した石上神宮の神宝を同母妹、大中姫命を経由して物部十千根命に委譲されたとあることで明らかである。*1
 また、物部氏と美濃国のつながりは、第十三代成務天皇の御代に物部十千根命の孫、臣賀夫良命が三野後国造として着任したことが『先代旧事本紀』の「国造本紀」に記されており、五十瓊敷入彦命の妃、渟熨斗媛命を祀る金神杜境内に「賀夫良城」と称する古墳があり*2 その足跡を伝えている。
 明治期に調査された『美濃国式内国史見在神杜明細取調書』によれば、高木真蔭氏の説として臣賀夫良命の着任と前後して・尾張.美濃には、物部氏が東進し、物部印葉連なる人物が、尾張国中島郡稲葉村(現在の稲沢市稲葉町)と美濃に伊奈波神を祀ったとあり、継体天皇の御代、物部金連によって金神杜が両国に祀られたとの説をあげるも確かな論拠にとぼしいと言えよう。



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伊奈波の神を「製鉄の神」と位置づける興味深い論考がある。
今津隆弘の「古代美濃考-神の系譜と伝承を中心にして-」
(「神社本廳・教学研究所紀要」第十号・平成十七年三月十五日刊)

 ・長良川の「ながら」は砂鉄を産する地名にちなむ名前
 ・稲葉山は〈鋳物場いものば〉がなまった言葉とも考えられる


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ところで、延暦六年(七八七)にまとめた『日本霊異記』に「女人の石を産生みて、之を以て神とし齋きし縁」第一の条に、次のような〈産石説〉が記載されている。
美乃国方県群水野の郷楠見の村に、一人の女人有りき。姓は県の氏なり。年二十有余歳に迄びて、嫁がず、通はずして、身懐妊めり。逕ること三年にして、山部の天皇のみ世の延暦の元年の癸亥の春の二月下句に、二つの石を産生みき。方の丈は五寸、一つは色、青白の斑にして、一は色、専(もっぱら)青し。年毎に増長す。比べる郡に名は淳見と日ふ有り。是の郡の部内に大神有り。名は伊奈婆と日ふ。卜君に託ひて言はく、「其の産める二つの名は、是は我が子なり」といふ。因りて、其の女の家の内に、忌離を立てて斎けり。往古より今来(このかた)、都(かつ)て見聞かず。是れも亦我が聖朝の奇異しき事なり。


延暦元年(七八二)の女人が石を生む物語である。方県郡は現在の岐阜市長良、忠節、黒野附近の地域で、水野は長良附近であるという。淳見は厚見であり、岐阜市内を指した郡名である。淳見郡の伊奈婆神とある。伊奈婆神は水野郷楠見村の女人に神託して使わしめたことは、伊奈婆神の霊験を如実に伝えている。『日本霊異記』のこの伝承は、従来式内杜方懸津神社(岐阜市長良八代)にまつわる所伝とされるが、今津氏は私見として五十瓊敷入彦命の妃、淳熨斗姫命を祀り、安産信仰のある金神社*1 (岐阜市金町)の境外社の黒岩神杜は「神石」と言われる黒岩石を祀るが、この地を古くは金津といい周囲に金町・金岡町・金宝町など「金」の地名が鉄を意味することに着目して、黒岩神杜の所伝と論考している。
 然し乍ら方縣津神杜も見逃しがたいものが存在する。それは日子坐王の子、丹波道主命の妃・丹波之摩須之郎女を祀る古杜であることを考えなければならない。
 ここで、角田政治編になる『続最新大日本地理集成』上巻・交通名勝之部(隆文館・大正五年十二月十五日再版)を掲載しておきたい。なお、同集成には伊奈波神杜の波を葉と印行していることを言及しておきたい。
 伊奈葉神社、市の東端稲葉山の西麓にあり。岐阜市の総鎮守にして、 今、縣社に列す。 五十瓊敷入彦命を祭り、 景行天皇御宇第四十四年丸山の北、 椿原の地に創建せしを、 天文八年現地に移転したものなり。 尾州徳川光友、 貞享二年社殿を修築し、壮麗なる結構美観を極めたりしが、 明治二十四年の震火災に罹りて鳥有に帰し、明治三十年再建成りしも未だ旧観に及ざるものあり。社域春桜秋楓の美に富む。 丸山神杜市内丸山の丘頂にある小宇。現今伊奈葉神社の一摂社たるに過ぎざれども、 地は前記伊奈葉神杜創建の旧址たるを以て名高く、社域に烏帽子岩あり。

と伝えている。

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「伊奈波神社 古縁起について」 
 伊奈波神社宮司 東道人

-以上抜粋-



*1  http://ultramal.exblog.jp/2938639/
*2  http://ultra3040.exblog.jp/2511409/ 「金神社」
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by ultramal | 2006-08-13 12:32 | 伊奈波