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by うるとら

多岐神社

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【社名】

多伎神社
タキ、タキノ

吉田家本はタキと不仮名し、幽史大系本はタキノ神社と読んで居り、棉祓志料も同じである。美濃國神名帳は「従五位下多岐明神」と記し、郷社「多岐神社」といふなど、多伎を使はないで多岐の文字を一般に使つてゐる。

所在地の名を採つて「大墳社」とも呼ぶ。當杜所藏の懸佛の銘文に社名を求めると、正中二年(一三二五)の「大塚大社」、嘉吉二年(一四四二)・文安六年(一四四九)・文明十年(一四七八)の「美濃國三宮大塚社」、永正七年(一五一〇)の「濃州三宮大塚社」とある。棟札では貞享三年(一六八六)の「濃州三宮護法大菩薩大社」、元文五年(一七四〇)・安永十年(一七八一)の「護法大菩薩社」などと記してゐる。


【所在】
鎮座地は養老郡養老町三神町。
神社明細帳には養老郡多藝村多岐字中屋四〇六番地ノ一となつてゐる。近鐵養老線「美濃高田」駅から西北へ直距離一・三キロメートルに位置する。阿部榮之助は『濃飛兩國通史』で鎮座地を多藝郡八郷のうち物部郷と推定した。鎮座地大墳は今は牧田川の南岸にあるが、古くは牧田川が大墳の西で西南流し、大墳は新舊二つの流れにはさまれて、クサビ形の尖端に位置した。

【祭神】
祭神は、神社明細帳によれば倉稻魂碑・素盞鳴命・大市比洋神である。
明治十四年の『町村略誌』大墳村の條には「郷肚多岐神社、祭神倉稻魂・猿田彦神・大宮咩神」と記してゐる。多藝郡の多藝は古事記の倭建命の條に地名起源に関する記事を載せてゐるほど古い呼称で、多岐神杜はこの地の豪族多藝氏の租神をまつつたのであらう。神社の本殿裏に本殿に接して一基の圓墳がある。圓填は上面が直経五メートル餘の平面となつて居り、傾斜角約三〇度の斜面四メートル餘をもつてゐる。この濁立圓填は恐らく多藝氏の墓であらう。
 神社では祭神を宇迦之御魂神とし、當社勅額と伝へるものは「正一位三宮護法大菩薩」となつてゐる。


後者については『多岐神社舊記』に多 郡大墳社頭額銘云、三宮正一位護法大菩薩とあり、額板ハ樫、文字眞鍮也、右大菩薩ハ人王四十三代元明天皇御宇、和銅年中比叡奉勤請、四十末杜の本地、郡中五十五村の宗苗たり、夫當社の本地奉尋者、法相眞如の唯教大乗膝理圓實致主彌勒慈奪の膝化三碑、卸一碑光一陰一陽にして澤迦彌陀薬師奪像ヲ正躰顯、惣而者、稻荷紳露爲上首爲護國成就、四月二の卯、九月九目、右二季に碑事執行、五十五村の氏子頭人改て楠事渡とある。碑肚所藏の縣佛裏銘によれば、嘉吉二年(一四四二)美濃國三宮大塚社として護法大菩薩をまつるとし、享徳三年(一四五四)には御法大菩薩、文明九年(一四七七)には美濃國三宮大塚護法大菩薩としてゐる。かやうに中世では祭紳を護法大菩薩としてゐた。





 境内杜は九杜あり、

(1)高山神社は多岐神社の摂社で古称は高山大櫨現、祭神は木花開耶毘売。

(2)三野神社は多岐神社の摂社で古称は美濃大神、祭神は不詳。

(3)御鍬紳杜は多岐紳杜の末肚、祭神は豊受姫命。

(4)八幡神社は以前は字将棋頭に村社として鎮座してゐたのを大正二年三月十八日境内杜に移してきたもので、祭神は応神天皇・神功皇后・比 大神である。

(5)派稻荷神社は八幡神社境内社として以前は將棋頭に鎮座してゐたが、八幡神社の移築と共に大正二年三月遷されてきた。祭碑は倉稻魂神・猿田彦神・大宮咩神。

(6)神明神社

(7)御鍬神社は共に八幡神社の境内社であつたが、将棋頭から移つてきた。神明神社の祭神は天照大御神・豊受姫命、御鍬神社は豊受姫命である。

(8)素盞鳴神社は宇前田に無格社として祀られてゐたのを、大正二年三月十八日境内杜に遷してきた。祭沖は素盞鳴尊。

(9)藤代神社は以前は字枯木に無格社として鎮座してゐたのを大正二年三月十八目に遷してきて境内社としたが、祭神は不明である。


【由緒】正中二年(一三二五)九月の多岐神社所藏の懸佛の墨書銘に

  大塚大社、和銅勘請之 社?二而、右頭人子孫繁昌祈者也
  正中二年九月十三目藤原友貞
                犬竹女

とある。大塚大社は文字通り平地の中に築かれた古墳の前に建てられた大社だからの呼称であるが、その創建は和銅年間(七〇八~一五)の勘請であると、中世では考へられてゐた。『志津記』には

  大墳郷正一位護法大菩薩は元明帝の御宇和銅元年(七〇八)の勧請にて、則、勅額今にあり、四十末社の本地、郡中五十五邑の崇神たり。惜哉天正年中洪水に依て賓殿棲閣諸堂悉く退轉し、神領三百石の證状も流失して、當時暇殿に鎭座なり。 舊地は所のみ残れり



古墳は
神社の祭紳との深い関係が偲ばれる。牧田川が養老山地と南宮山塊との狭い谷を東へくぐり抜げ美濃平野へおどり出た所の、現在の牧田川と津屋川がつくり出した平地には東を仕切る揖斐川までの間に、古填はこの一基しか現存しない。嘗て多藝村大字多岐小字多岐填と所在地を呼び、また多藝郡大墳邑と呼び、慶長七年(一六〇二)の棟札に大塚大菩薩假殿といふ大塚の名は、この古墳に由來する。大墳の名は更に中世に遡り正中二年(一三二五)の懸佛の銘には「大塚大社」とある。平野の中に大塚は目立つ存在であつた。
 この古境の上に如法経碑がある。碑は高さ五八セソチメートル、前面横幅二四センチメートル、川原石に陰刻したものである。
by ultramal | 2006-08-15 22:00 | その他神社