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by うるとら

カテゴリ:壬申の乱( 3 )

湯沐邑



村国連男依(乱後の論功行賞で連姓を賜つたといわれる。)
小依、雄依とも書かれるが、当時の三野の国各牟評村国の里、後の『和名類聚抄』にみえる美濃国各務郡村国郷つ青現在の岐阜県各務原市東部地区を本拠地とした小豪族からの出身である。身毛君広は、牟宜都君比呂ともみえ、現在の美濃市から関市にかけてを中心にした、中濃北東地域の伝統的な地方豪族からの出身である。また和珥部君手は、丸部臣(わにべのおみ)、和爾部臣とも書き、その本拠地はいま一つ明確ではないが、「不破道」をはさむ西美濃地方から滋賀県東部地域の坂田郡あたりのいずれかと推測される。三人の舎人等は・特命により、湯沐令の多臣品治と緊急に連絡をとるとともに、彼等の出自を生かし、同族および近隣諸氏に働きかける役目を果たした。三人の舎人等は六月二二日に吉野宮滝を出発したが、四日後の二六日に伊世(伊勢)国朝明評家まで進んで来た大海人皇子に、男依が報告に来る。すなわち、「美濃の師(いくさ)三千人(みちたり)を発(おこ)して、不破道を塞(さ)ふること得つ」
 この「美濃の師三千人」とは湯沐邑およびその周辺地域から動員された農民丘士とみられる。出発の日から数えて、その往復の行程を考慮に入れると、ほとんど湯沐邑に着後一両日で動員したことになる。大海人皇子方の事前の準備万端であったことが伺われる。



湯沐邑
安八磨郡(味蜂問評)湯沐邑が乱の重要な意味を持つていた。当時は味蜂間評と書いたが、後に安八磨郡更に地名は二文字で書くようになって安八郡となった経過は前節でも触れた。このように日本書紀の記事もすべて、大宝令制下の表示になっていることが問題であるが、湯沐邑は大海人皇子の領地であつた。湯沐邑が大海人皇子の本拠地であるから、とにかく美濃へ向かわなくてはならない。近江から直接美濃へ向かえば、近江方にその意志が分かつてしまうし、他にも理由があったらしく吉野に向かい、鈴鹿の関経由という遠回りをして美濃に入ることができた。一説に、神武天皇東征の際、太陽を背にして南の吉野から入って大和を平定した故事に習ったと言われている。後の南北朝、後醍醐天皇も、神武、天武の先帝の故事に習って吉野へ向かったと言われている。
 
 大化二年一六四六一正月、いわゆる大化改新詔の第二詔に公地、公民がうたわれている。
「其の一に日はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、處處の屯倉、及び、別には臣、連、伴造、國造、村首の所有る部曲の民、處處の田荘を罷めよ。仍りて倉封を大夫より以上に賜ふこと、各々差有らむ。」(以下略)
 この改新詔の内容のとおりに実施されたのであれば、天皇や豪族の私有民、私有地はなくなったはずであるが、実際には、近江令、浄御原令、大宝令を経て実現されていく。改新詔第二詔の国、郡の制にしても同様であったことは前節でも触れた。壬申紀の中にも、処々にその残痕が見える。湯沐邑もその一とも言える。

 天皇に朝見するために、湯沐の村で体を清めてから天皇にお目通りするということ、入浴用、化粧料、あるいは調度を揃えるための費用としている。この二〇〇戸は公戸とは異なるので封戸に入るが、封戸とは一応区別しているという解釈である。一種の領地で、中宮と皇太子に対しては食封と言わず、湯沐と称した。「延喜式巻四十三 春宮坊の条」に「凡東宮湯沐二千戸」とあるのがそれに当たる。二〇〇〇戸というと、五〇戸=里(郷)であるから四〇里(郷)になる。平均的な郡で考えて三郡から四郡になり、小さな国なら一つ分、大きな国の半分くらいにも相当する広大な領地となるが、壬申の乱の時点で、必ずしも律令制と同数を所有したとは限らないし、安八磨郡(評)一ヵ所に集中していたとは限らない。
 『和名抄』によると、平安時代の内容ではあるが、安八郡は那珂、大田、物部、安八、服織、長友の六郷から成り立っている。安八郡から分割されたであろうとされる池田郡も六郷であるから、併せて一二郷。人口の増加も加味すると、いわゆる、壬申の乱当時の味蜂間評湯沐邑は一〇郷程度の規模と推察できる。
 湯沐邑の長官は湯沐令、多臣品治であった。。この多臣品治は『古事記』を稗田阿礼と共に書いた太安麻呂の父、あるいは近親者といわれている。湯沐邑の長官を湯沐令と称することは、大化前代の皇室の直轄領であるミヤケ(屯倉、三宅、官家等と書く)の長官が田領(田令)であったことを連想させる。
 「欽明紀十七年七月六日条。蘇我大臣稲目宿称等を備前の児鳴郡に遣はして、屯倉を置かしむ。葛城山田直瑞子を以て田令(たつかひ)にす。田令、此をば、陀豆歌毘(たつかひ)といふ。
欽明紀三十年四月条。膽津、白猪田部の丁者を検へ閲て、詔の依に籍を定む。果して田戸を成す。天皇、膽津が籍を定めし功を嘉して、姓を賜ひて白猪史(しらゐのふびと)とす。尋ち田令に拝けたまひて、瑞子が副としたまふ。」
 有名な白猪の屯倉の設置に関する記事である。大化前代、天皇の直轄領である屯倉において、戸籍が作られ、田令、福(正式名不明)の長官、次官がいたことが分かる。この田令は、大宝元年(七〇一)四月一五日条に「罷田領委國司巡検。」と見え、田令、田領と字は異なるが、白猪の屯倉の田令と同じ職掌を伺うことが出来るし、湯沐令の令は、郡の役人、大領、少領あるいは総して郡領と同じ意味に通じる。この田令が派遣された屯倉は、大化改新詔で廃止されたはずなのに、内容的に、あるいは地域的に異なるかも知れないが、とにかく大宝元年(七〇一)まで存統して来たのである。

<垂井町史 通史>

◎湯沐  とうもく
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by ultramal | 2006-08-10 18:56 | 壬申の乱

伊勢神宮の起源

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 書紀の文章は「常世の浪の重浪」がうち寄せるという場所、つまり「常世」につづく海岸が条件となっている。海のない大和国内では「常世」という神仙思想とむすびつかないのである。おも「常世の浪がうちよせる東方(大和からみて)の是の国にわれは居らんと欲う」という言には、神仙思想のみがあるのであって、太陽信仰はみられない。
 また、右の天照大神の託宣には、この伊勢の国を「傍国」といっている。「傍国」は倭人伝にも「其他芽国」と出ているように、わきにある国、地方の国の意味で、もちろん大和からみて伊勢が地方の国というのである。



伊勢神宮の起源
 
 では、どうしてそんな地方に皇祖神をまつる伊勢神宮を持っていったのか。書紀はその理由を崇神六年の条で説明している。天照大神とや倭大国魂(出雲系の信仰)とを宮殿にいっしよに祀っていたところ、両神は共に住むのを好まず、っまり仲が悪いため、国内に疫病が流行した。よって天照大神は大和の笠縫邑らに祭り、大国魂は三輪山に祭った。
 大国魂は大田田根子という出雲系の司祭がついてそこにおさまったが、天照大神のほうは笠縫うだ邑には落ちつけずに、倭姫命の捧持で、菟田、近江国、東美濃をめぐって伊勢国に入り、(前記)の「伊勢国は常世の浪の」という託宣となって)五十鈴川の川上に斎宮をたてた。「これを磯宮と謂ふ。すなはち天照大神の始めて天より降ります処なり」(垂仁紀二十五年)。
 まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
 これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
 そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰) まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
 これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
 そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰)の宮である。斎宮を磯宮といったのではなく、磯宮に斎宮が宿かりしたのである。
 伊勢湾の沿岸は漁携生活煮いわゆる海人族の根拠地であった。いまの三重県度会郡の地はもと「磯」といったらしい。国名のイセ(伊勢)もイソ(磯)からきているようである。イズズ(五十鈴川)の名も、イソから出ていると思われる。イソツ川一磯津川。津は助詞の「の」)=イセツ川だったのを後世に神話じみた「五十鈴川」の字を宛てたのであろう。
 この磯の地一帯を支配していたのが礁携生活集団の首長の度会氏である。この度会氏一海人族一の共同神が磯宮である。
 柿本人麻呂の長歌にある「渡会の斎の宮」(『万葉集』一九九)というのが、度会の磯宮に天照大神の斎宮が宿かりしていたときの姿を浮かばせている。これを大海人皇子が壬申の乱で望拝したことになっている。
 ワタラヒ(度会)は朝鮮語のワタ(pata=海)からきている。海を横切るのをワタル(渡る)というのもこれの動詞化である。伊勢は「百船の度逢県」(『古事記』)であった。
 壬申の乱で大海人方に神威が加勢したというので、度会の磯宮にある斎宮が朝廷の崇敬するところとなり、伊勢神宮になった、と普通は説かれている。

内宮と外宮

 この磯宮は、朝廷がつくった伊勢神宮に内宮ができたとき、外宮となった。内宮が海岸から十数キロはなれた山の谷間の伊勢市宇治にあるのに対し、外宮が海岸に近い伊勢市山田にあるのは古いかたち一磯宮一を示している。
 では、朝廷はなぜ磯宮を内宮とせずに、それより格が一段劣る外宮にしたのか。それは度会氏の氏神ともいうべき磯宮一斎宮一をそのまま伊勢神宮に昇格させたのでは皇室の権威にかかわるので、天照大神がこの地に天降ったということにして新たに内宮をつくったのである。内宮の神官に朝廷は度会氏と拮抗する土地の中豪族荒木田氏(その祖は大和からきて土着し、成務天皇のとき、神宮の御料田を寄進した功で荒木田神主姓をたまわったという)を任じた。これは朝廷が伊勢神宮の前身が磯宮だというイメージを払拭することと、度会氏の勢力を削ぐことの二つの目的からである。
 度会氏は神宮ができたときから内宮・外宮の神事を独占したと、その古さを主張しているのにたいし、荒木田氏は内宮の成立当初から神事にしたがっていたと主張する。長いこの「論争」は性質上決着をみないが、度会氏は磯宮の斎宮が外宮になったときからの神事をつかさどり、荒木田氏はあとから内宮ができたときからの神官とみるべきだろう。荒木田氏の主張が外宮にふれないのはそのことを証するようである。
 荒木田氏は中央の中臣氏と結托し、系譜の上からも中臣氏の支流をつくっているが、度会氏のは中央貴族とは無縁の独自の系譜である(岡田精司『伊勢神宮の起源と度会氏』による)。このことからも度会氏のほうが土地の古い豪族、つまり伊勢湾漁携集団の首長の流れである。度会氏は「磯部」姓も名乗っていたことが『続日本紀』にも見える。磯部の姓は磯宮との関係でわかりやすい。
 外宮が内宮よりも古いと思われることは、伊勢神宮の大祭では、まず外宮から神饌供犠の祭りがはじまることでもわかる。これを神宮先祭という。荒木田氏はなんとかして先祭の特権を外宮から内宮に取ろうと図ったが、度会氏ががんとして拒絶してきた。いらい両神官家の争いは明治になるまでつづいている。
 では、天照大神が内宮に坐すなら、外宮はどういう神を祀っているかというと、豊受神が主座である。だが、この豊受神というのは系統不明の神で、『古事記』には登由字気神の下に注のかたちで「こは外宮の度会に坐す神ぞ」と書き入れてある。これは記のもとの文にはなく、後から挿入したらしい。
 豊受神というのは食物の神で、この場合は稲(米穀)の神さまということになっている。しかし、天照大神を内宮に持ってゆかれたので、やはり外宮は分がわるい。
 次に、伊勢神宮の設立を大和朝廷が東国経営の拠点にするためだったという説がある。この説の根拠の一つは、美濃・尾張・三河の各国に伊勢の神領があるというのである。しかし、これは伊勢神宮が朝廷の権威で大きくなるにつれて神領がふえていったのであって、武力経菅とは関係がない。
 またヤマトタケルが東国征伐に出発の途次、伊勢神宮の斎女をしている叔母のヤマトヒメのもとに行き、神宮を拝した(景行紀)というのが根拠の一つになっているが、これは参拝だけであって、ここを武力の根拠地としたとはない。それにヤマトタケルが伊勢神宮に立ち寄ったのは、「西の熊襲を討って帰るとすぐに東の方十二道の悪人らを平らげよと命じられる天皇は、わたしが死んだらいいとでも思っておられるのか」という不満と歎きを叔母に洩らす(『古事記」。書紀には無し)のが主目的だったのである。
 東国経営の根拠地とするには伊勢神宮のある場所は南に下りすぎる。東国平定は海路でなく陸路だから、熱田神宮のある名古屋あたりなら合点がゆくが、伊勢ではうなずけない。たとえば東国に軍隊を送るのに、伊勢湾を輸送船団が横断して渥美半島や知多半島に上陸させたという記事は見あたらない。すべて内陸寄りの道(東海道はまだできていない)で、その主要コースは美濃・信濃.毛野(群馬県)となっている。ここは古代の交通路で、中期古墳もこのコースに集中している。
 要するに伊勢神宮の設置は、海をもたない大和朝廷が東方の伊勢に海の宮をつくって祖廟としたということであって、それは西の瀬戸内海に漁携生活集団(安曇族)の共同祖霊である胸形(宗像)神杜と住吉神社とを信仰したのとなんら変わりはない。度会氏もまた阿曇族である(伊勢の潜水海女を見よ)。
 それがとくに伊勢神宮となったのは、前述のように中国の神仙思想の影響が強い。「太陽信仰」や「東国経営」をあまり過大視してはならないと思う。
 



『壬申の乱』 松本清張著 清張通史5
講談社 文庫 1988より
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by ultramal | 2006-08-02 13:30 | 壬申の乱
P266~268

・・・・・壬申の乱と神武東征伝説との関係について若干述べておくこととしたい。しかしこの乱が神武伝説の形成と深い関係のあることは、実はすでに関晃氏によって説かれている。氏はつぎのようにいう。『記・紀』による限り、神武天皇の存在に関する古代人の関心は極めて薄く、壬申の乱において、高市県主許梅が神の託宣をのべて、「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の稜に馬と種々の兵器を奉れ云々」といったのが、神武天皇の名が確かな史料に出てくる最初である。おそらく神武伝説は広く知られていた物語ではなく、鴨氏のような一部豪族によって伝えられており、壬申の乱の戦況が神武の加護によって好転したと解されたため、そうした一部の氏族のもつ伝承が乱後大きく浮かびあがり、天武朝になってから進行した『記・紀』編纂の中に取り上げられ、今日伝えられるような形の伝説に定着したのである―――と。


まことに妥当な見解であると思う。しかしいうまでもなく、壬申の乱以前に、神武伝説が完成した形で一部豪族の間に存在したというのではない。乱の勝利によって大きく取りあげられるとともに、修正・加除が行われて現在の形に整えられたのである。それは、乱と記紀の神武伝説と比べてみると、左記のようにいくつか類似てんがみられるので、ほぼ誤りがないと思われるのである。

  1. 大海人はまず東国に走り、西を向いて反攻に移るが、神武は「吾は日の神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、(中略)今より行き廻りて、日を背負ひてこそ撃ちめ」といって、熊野をめぐる。(記・紀)
  2. 大海人は吉野宮から菟田への道をとっているが、神武は「吉野川之川尻」から「宇陁」に行く(記)。
  3. 菟田のほかに、墨坂の地名も、壬申紀と神武記、神武紀に共通して現れる。
  4. 壬申の乱の大和での戦いは、大伴氏の功績が最も大きいが、神武伝説においても、大和平定には大伴の祖道臣命の功が大きい(記・紀)。
  5. 壬申の乱において物部氏の中心人物と思われる麻呂は、大友皇子に従い、その最期まで見届けているが、天武朝に仕えて優遇され、その後も一族は栄えている。これは物部氏の祖饒速日命が、はじめ神武の最大の敵手長髄彦と共同しながら、最後にこれを殺して神武に帰順し、以後も物部氏が朝廷に重く用いられるようになったこと(紀)と筋道において一致している。
  6. 大海人は乱を平定した翌年即位した。神武も大和を平定した翌年即位した(紀)。


 神武伝説は以上のような諸点において、壬申の乱の史実と類似している。その中には、壬申の乱以前から神武伝説の要素として成立し、壬申の乱との類似は偶然にすぎないものもあるかもしれない。大伴・物部の祖が神武伝説にあらわれるのは、私自身がかつて論じたように、壬申の乱以前、おそらく六世紀前半以来のことと思われる。しかし、すべてを偶然の一致とすることも困難であろう。壬申の乱によって大海人皇子が皇位についた現実は、当時の宮廷貴族に深い印象を与えたに違いない。しかも大海人自身、自分を漢の朝廷をひらいた漢の高祖に比する考えをもっていたのである。上記の壬申紀に類似した神武伝説の諸点は、壬申の乱の経過にもとづいて作り上げられた部分が少なくないと考えてよいと思う。大伴・物部両氏の活躍にしても、壬申年以前の神武伝説にあっただろうが、細部については壬申の乱における両氏の活躍ぶりがとり入れられて、今日の神武伝説が成立したのであろう。
 




『壬申の乱』 直木孝次郎著 塙書房 1961年
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by ultramal | 2006-07-29 18:29 | 壬申の乱