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by うるとら

カテゴリ:伊奈波( 4 )

伊奈波神社縁起巻物から



□ 伊奈波神社の創祀 □


『美濃国第三宮因幡杜本縁起』の伝えるところによれば、


  1. 景行天皇が武内宿禰を派遣し、五十瓊敷入命一族を祀る社壇を椿原金山麓に祀ったという。
  2. その後、天下分け目の占代最大の内乱、壬申の乱の際、武略の神として神験を顕わして厚見郡を御神領として定められた。
  3. 椿原は稲葉山(因幡山・伊奈波山)の西麓、現今では丸山と称する小丘上で、境外摂社丸山神社の社地が旧鎮座地である。
  4. 社名は現在、伊奈波神社と称されているが、古くは(因幡)との社名であった。


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藤原朝臣経朝が康元年中、当社の額を書く際、正一位因幡大菩薩と載せたとあるが、康元年中ではなく文永四年(一二六七)であり、大菩薩でなく「正一位因幡大神」である。現在、経朝の神額(35×68cm)が遺されているが、それは「文永四年丁卯姑洗二日」と刻まれ、文永の役、つまり蒙古襲来であったことから伏敵祈願のものと見做されている。姑洗とは「陰暦三月に配す」ことである。このように、承和十二年(八四五)七月、〈伊奈波神〉と記述されていたのにかかわらず、この因幡を社名にしていた理由は明らかではない。『木曽路名所図会』には「因幡神社」の項に、「此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり」と伝えているが、『美濃国第三宮因幡社本縁起』の金石伝説の中に垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命は、勇猛果敢にして文武に優れ、因幡守に補任される。 と記されているので、ご祭神に因む社名であることは想像に難くはない。古社の由緒を示す文献としては、弘仁式、貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則としての『延喜式』五十巻がある。延長五年(九二七)に撰進したものであるが、その巻第九・十(神祇十)に「神名帳」があり、この巻第九.十に登載される神杜を「式内杜」といい、厚見郡所載の三座は比奈守神杜、茜部神杜、物部神杜である。

伊奈波神杜は『延喜式』の「神名帳」に記載されていないが、京都・吉田杜権預・鈴鹿連胤の著した『神社覈録』下(同朋会・昭和四十六年七月二十日刊)に、物部神社を次のように記している。

物部は毛乃々倍と訓べし、
祭神五十瓊敷入彦命、渟熨斗媛命、日葉酢媛命、十千根命、
社説、岐阜稲葉山に在す。古今因幡明神と稱す。

といい、『延喜式』に収載する物部神社は伊奈波神杜であることは『伊奈波神社略史』に詳述されているところである。南宮大杜も同式に仲山金山彦神社と登載しているように、伊奈波神杜を物部神杜とあっても不都合ではない。

因みに、仲山金山彦神社の「仲(中)山は中国の『山海経』の一つ「中山経」が産鉄の世界をあらわしたもの」(真弓常忠著『日本古代祭祀と鉄』・学生杜・昭和五十六年十二月二十五日刊)で製鉄の神金山彦命を祀り、美濃国一宮と称されている。
 文化二年(一八〇五)版行になる『木曽路名所図会』にも、

  厚見郡岐阜稲葉山の麓に鎮座あり、延喜式云、物部神杜、物部氏の祖也。

とある。また次いで、
 当社はじめ伊奈波山椿原に鎮座し給ふ。天文八年のころ、齋藤秀龍城を築く時、今の地に遷座ある。又土人の諺に云、此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり。と伝承している。 一方、『美濃国神名帳』に記載され、物部十千根命を祀る従五位下物部神社は、稲葉山南麓の長森岩戸に鎮座していたが、齋藤道三が稲葉山を居城とするに際して伊奈波神杜に合祀されることとなったと伝えられる。

ここで、伊奈波の神と物部氏との関わりについてもふれておきたい。
伊奈波の神は、垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命で、『日本書紀』垂仁天皇三十年春正月の条によれば、垂仁天皇から五十瓊敷入彦命は弓矢、、すなわち武具を司どることを命じられ、後述するように回二十九年冬十月の条に、劔一千口を作り、石上神宮に蔵め「王権の武器庫」としての石上神宮の神宝の管掌を命じられたと記されている。同八十七年春二月の条には五十瓊敷入彦命が管掌した石上神宮の神宝を同母妹、大中姫命を経由して物部十千根命に委譲されたとあることで明らかである。*1
 また、物部氏と美濃国のつながりは、第十三代成務天皇の御代に物部十千根命の孫、臣賀夫良命が三野後国造として着任したことが『先代旧事本紀』の「国造本紀」に記されており、五十瓊敷入彦命の妃、渟熨斗媛命を祀る金神杜境内に「賀夫良城」と称する古墳があり*2 その足跡を伝えている。
 明治期に調査された『美濃国式内国史見在神杜明細取調書』によれば、高木真蔭氏の説として臣賀夫良命の着任と前後して・尾張.美濃には、物部氏が東進し、物部印葉連なる人物が、尾張国中島郡稲葉村(現在の稲沢市稲葉町)と美濃に伊奈波神を祀ったとあり、継体天皇の御代、物部金連によって金神杜が両国に祀られたとの説をあげるも確かな論拠にとぼしいと言えよう。



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伊奈波の神を「製鉄の神」と位置づける興味深い論考がある。
今津隆弘の「古代美濃考-神の系譜と伝承を中心にして-」
(「神社本廳・教学研究所紀要」第十号・平成十七年三月十五日刊)

 ・長良川の「ながら」は砂鉄を産する地名にちなむ名前
 ・稲葉山は〈鋳物場いものば〉がなまった言葉とも考えられる


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ところで、延暦六年(七八七)にまとめた『日本霊異記』に「女人の石を産生みて、之を以て神とし齋きし縁」第一の条に、次のような〈産石説〉が記載されている。
美乃国方県群水野の郷楠見の村に、一人の女人有りき。姓は県の氏なり。年二十有余歳に迄びて、嫁がず、通はずして、身懐妊めり。逕ること三年にして、山部の天皇のみ世の延暦の元年の癸亥の春の二月下句に、二つの石を産生みき。方の丈は五寸、一つは色、青白の斑にして、一は色、専(もっぱら)青し。年毎に増長す。比べる郡に名は淳見と日ふ有り。是の郡の部内に大神有り。名は伊奈婆と日ふ。卜君に託ひて言はく、「其の産める二つの名は、是は我が子なり」といふ。因りて、其の女の家の内に、忌離を立てて斎けり。往古より今来(このかた)、都(かつ)て見聞かず。是れも亦我が聖朝の奇異しき事なり。


延暦元年(七八二)の女人が石を生む物語である。方県郡は現在の岐阜市長良、忠節、黒野附近の地域で、水野は長良附近であるという。淳見は厚見であり、岐阜市内を指した郡名である。淳見郡の伊奈婆神とある。伊奈婆神は水野郷楠見村の女人に神託して使わしめたことは、伊奈婆神の霊験を如実に伝えている。『日本霊異記』のこの伝承は、従来式内杜方懸津神社(岐阜市長良八代)にまつわる所伝とされるが、今津氏は私見として五十瓊敷入彦命の妃、淳熨斗姫命を祀り、安産信仰のある金神社*1 (岐阜市金町)の境外社の黒岩神杜は「神石」と言われる黒岩石を祀るが、この地を古くは金津といい周囲に金町・金岡町・金宝町など「金」の地名が鉄を意味することに着目して、黒岩神杜の所伝と論考している。
 然し乍ら方縣津神杜も見逃しがたいものが存在する。それは日子坐王の子、丹波道主命の妃・丹波之摩須之郎女を祀る古杜であることを考えなければならない。
 ここで、角田政治編になる『続最新大日本地理集成』上巻・交通名勝之部(隆文館・大正五年十二月十五日再版)を掲載しておきたい。なお、同集成には伊奈波神杜の波を葉と印行していることを言及しておきたい。
 伊奈葉神社、市の東端稲葉山の西麓にあり。岐阜市の総鎮守にして、 今、縣社に列す。 五十瓊敷入彦命を祭り、 景行天皇御宇第四十四年丸山の北、 椿原の地に創建せしを、 天文八年現地に移転したものなり。 尾州徳川光友、 貞享二年社殿を修築し、壮麗なる結構美観を極めたりしが、 明治二十四年の震火災に罹りて鳥有に帰し、明治三十年再建成りしも未だ旧観に及ざるものあり。社域春桜秋楓の美に富む。 丸山神杜市内丸山の丘頂にある小宇。現今伊奈葉神社の一摂社たるに過ぎざれども、 地は前記伊奈葉神杜創建の旧址たるを以て名高く、社域に烏帽子岩あり。

と伝えている。

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「伊奈波神社 古縁起について」 
 伊奈波神社宮司 東道人

-以上抜粋-



*1  http://ultramal.exblog.jp/2938639/
*2  http://ultra3040.exblog.jp/2511409/ 「金神社」
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by ultramal | 2006-08-13 12:32 | 伊奈波

まとめ

イニシキをまつるイナバ神社が丸山の旧社地にあったが、
齋藤秀龍城を築く時、今の地に遷座
今の伊奈波神社に移動させた。

物部神社が伊奈波神社である。

古くは因幡明神といったらしい。

(物部十千根を祀る従五位以下が、長森の岩戸に鎮座していた。
道三が稲葉城を居城とする際、伊奈波神社に合祀した)


金山はすなわち鉄の神

金の王なる哉・・・






因幡の白うさぎ
しらぎの鸕

ガマは泉のこと
このあたりの方言らしい
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by ultramal | 2006-08-13 11:49 | 伊奈波


夫、因幡大菩薩と申たてまつる御ことは、人王十一代垂仁天皇の第一の王子、御名を五十瓊敷入命と号す、御たけ一丈あまりの御神なり。よのつねこゝろさしをふりやくのみちにかけ、思を文道の葉にとゝむ。りきりやうゆうけんにして世にすくれさせたまひ、才智くわうはくにして、よ人にはこえたり、されとも、御くらゐにつき給はさりし事御のそみありしゆへや、むかししつた太子はわうくうをしのひいて、たんとくせんにのほり、御しゆきやうありしゆへ、三かいの法王となつて、つゐに五百の声聞(しゃうもん)を利し、かねては八方の大衆をみちひきたまふ。いまのいそにしきいりのみこと御即位をのかれさせ給し御こと、ひとへに国家のあんせんをまもり、弓箭のしゆことなりたまはんとの御せいくわん、誠に心さしのなすところゆへあり。さるによつて、第二の王子を御くらゐにつけまいらせ、人王十二代景行天皇と申たてまつるとなり。黍もいそにしきいりのみこと居(きょ)を当国毛利郷にしめき。月ををくり給ひしおりふし、朝家におゐて神代よりつたはりし三種の神器のそのひとつ宝釼夜なゝうする事あり。天皇大きにおとろき、しんきんをなやまし、すなはちはかせをめし、うらなわせ給へは、奥州に日本第一の金の丸ひとつの石となりてあり。ほうけん、くたんの金石に心をかけ、禁中を出るとなり。彼金石を鳳闕(ほうけつ)におさめられは帝都はんしやうして朝威(てうい)四海におほい、天下泰平にして聖化国土におよふと云々。于時中臣部豊益に謀て、金石をとりまいらすへきよし宣下せらるゝの間、ちよくてうにまかせけちをくわふといへとも、国民等かの金石はたうこくのしゆことして往古よりこのかた此国を出す事かなひかたきよし申、けんしたてまつらさるあいた、主上いよ~けきりんあつて、第二ヶ度のちよくしにやまとたけのみことにせんかせらるゝ時、天照太神よりあまのむらくものけんをあたへ給ふ。此むら雲の劔と申は、そのかみそさのおのみこと雲州にして大地の尾よりとりいたし、天せう太神にたてまつりしほうけん也。くたんのけんをぬいてふりたまへは、四方一里の草木かりたいらくるゆへ、草なきの劔とも申也。かくのことく東夷をせめほろほし給ふといへとも、金石におゐてはつゐにとり得たまはす。第三度めにいそにしきいりのみことに宣下ありて、景行十二年十一月三日、やまとのくにまきむくひしろの宮をたちたまひ、奥州におもむき、くたんの金石をたつね給ふに、たかさ三尺六寸、まろさ八尺なるをえたまへり。すなはち御随身あつて同十三年二月御上洛ありしとなり。其金石、大ほさつをしたしみ申にや、当国厚見のこほりにおゐて一夜のうちに三十六丈の山とけんし、鎮座となる事、神通不思議、神反自在の道理なり。ことに、いそにしきいりの神号は、かたしけなくも大梵天皇みつからいなは大ほさつとさつけまいらせらる事、古今無双のきすい、あふくへくたつとむへきものなり。しかれはすなはち天皇(景行天皇)大臣武内宿祢をちよくしにさし下され、椿原金山のふもとに社壇をかまへ、同十四年二月十六日、因幡大菩薩とあかめたてまつる。あつみのこほりを御敷地にふせられ、しかつしよりこのかた四季の御神楽、二きのほうゑやむことなし。れいけんいよ~あらたにして、景行の御宇より三十二代用明天皇の御宇にいたるまて、月をかさね年をつもりて五百の星霜(しゃうそう ほししも)ををくるところに、百済国より仏教僧尼本朝へわたるその僧の中に難行法師といへる人あり。
天の告(つげ)を得、夢中にみのゝくにあつみのこほりいなは山にして仏菩薩かすおほくあつまり光明かくやくとして、まことに浄刹にことならすとおほえて夢さめぬ。すなはち当国へたつね入、当山によちのほる。そも~此地のていたらく、西は寺杜きゝとして白馬寺のほとりににたり。北に大河(号因幡川)まん~として流沙川のきしにひとし。

東南山岳峨々として黒鷲嶺のふもとのことし。かるかゆへに此勝地をしめて籠居し勤行する事一千ヶ日、三宝にきせ、いしていはく、こひねかはくは十方三世一切の謝仏、我に正法をしめし、御神体を現したまへと一心不乱に修念する時、夢中に童子きたつてつけていはく、我神体をあふき見んとほつせは、東方に大きなる池あり。達地目(だちぼく)の池のほとりにかならす応現あるへしと云々。翌日彼所に莅てそんたいを念し呪を誦し、たんせいをぬきんつるところに、かつちうをたいしたる武者数十き、白雲に乗て見え給ふ。難行再拝称名していはく、ねかはくは御本地を示し給へ、御本誓をあふきたてまつるへしときせいいたす時、神託にいはく、我在世のむかしはふりやくをむねとしていそのかみの神宝をつかさとる。垂跡のいまは金山に住してくとんの衆生を利し、もつはら一天四海安穏豊饒五穀成就と守る。頌日、


 我是弥陀     此山垂跡
 われこれみだ   このやますいじゃく

 現大菩薩     済度衆生  文
 げんぼさつ    さいどしゆじやう


干時難行法師、神勅にまかせて一々に本地の徳をひろめ、をの~に垂跡の化をほめたてまつり、是をしるしていはく、

一、中宮因幡大菩薩   本地阿弥陀如来本 
一、宮峯権現       本地薬師如来(御母也)
一、下宮金大明神    本地聖観世音菩薩(御息所)
一、大行事         本地虚空蔵菩薩(御嫡子)
一、后御前         本地十一面観音化身
一、大神門         本地金剛界大日如来(已上三所王子是也)
一、児御前         本地勝軍地蔵菩薩、
一、高山          本地釈迦如来化身、
一、野宮          本地毘沙門天王化身、
一、祖曽路宮       本地大聖文殊師利菩薩化身、
一、峯八王子       本地八大金剛童子、
一、惣社大明神      本地千手観音化身

かくのことく難行法師おこなひあらはし、御宝殿をつくりあかめたてまつるところに、人王四十代のみかと天武天皇、大友の皇子におそはれさせたまひて、九禁をさつて大和のくによしのゝおく、清見原にしのはせおはしけるか、ひそかにみのゝくにふわのこほりにつかせたまひ、たうごくならひに尾張のぐんびやうをあつめ、ふわの関をかため、御かつせんありし時、きよみはらの天皇、南宮法性大菩薩にちかひたまふ。今度のかつせんに勝利を得、本意をとけは、たうごく一宮にあかめたてまつるへきよし御きねんのみきり、神託にいはく、いなは大ほさつ大行事の市隼雄の大明神に御きせいあるへしとの告あり。天皇東山に向て御いのりありし処に、たちまちに鏑矢東山よりかふらのをとして西をさしてとひゆきぬ。大友の軍勢程なくこと~くほろひて、長沢と号する谷川の水、血になりてなかれしよりこのかた、黒血川と申とかや。かくのことくれいけんあらたなるによつて、天武天皇の御願として南當法性大菩薩を当国一宮にあかめ、いなは大ほさつを三の宮とあかめたてまつり、あつみのこほりを御神りやうとさため、則六所の神宮寺をこんりうし、毎年二月十六日より三十講をおこなひ給ふ。三月三日より同六日にいたる迄、四日の八講をつとむ。当軍内平田の東西以下、郷々八頭をつとめ、ほうへいいたし、しかのみならす八人のやをとめ五人のかくらおのこをさためをきて、日々夜々の御かくら断絶せす。みなこれ無双の神徳也。諸人あゆみをはこひ、子孫はんゑい福寿増長の利生にあつかる事、是あらた也。在世のそのかみは石上の神宝をつかさとり、すいしやくのいまはふりやくのみちをもとゝして朝家をまもりたてまつりたまふ神明也。
奉為天下泰平国土安穏万民快楽子孫繁昌寿福増長敬白


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by ultramal | 2006-08-12 14:08 | 伊奈波

金華山物語

伝説の巻 清 信重

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代の石器、土器の類でも、これらを保存する能力に欠けている。いまでもドライヴ・ウェーの工事などで古墳らしいものにぶつかるが出土品としては見るべきものがすくなくない。
 山の古さは日本創生に時を同じくするが、濃尾平野はまた陸地として、一番若い地質に属している。これは木曾、長良、揖斐の三川が山から運んだ流砂土から出来ており、かつは今現在進行申の過程でもある。かっては濃尾平野の大部分は伊勢湾に属していた。養老郡の城山には貝塚があり、人間時代のある時この辺が淘辺であった証拠を提出している。つまり金華山のふもとは海岸だった。岐阜付近の侯説に「稲葉山から赤坂までを七里の渡しと呼ぶ」とおりまた鏡島乙津寺伝には「鏡島はもと、乙捧島といいしを弘法大師が鏡を海中に投じて陸にした」ともいう。


    ×     ×


 太古の山には名はなかった。やがて人が住み、書かれた歴史の時代になると、ぼつぼつ名がでてくる。この山の名を古くは「いなば山」とよんだようである。
 「いなば」 というのは必ずしもここだけではない。「いなのばの白兎」の伝説は海を渡るのだからここのことではない。たから古い記録にでてくる「いなば」もよく吟味してみる事が必要てあろう。
 
  たちわかれ  いなばの山の峰におふる
  松としきかば いま帰りこむ


というのは百人一首に出てくる在原行平の歌であるが、これがこの山をいうとの説がある。これには異説もあるから行平にきかねばわからないが、それ以後の歌には「不被の関」と一緒に読みこんだものもあり、それからみてこの名の古いことを知ることができる。この「いなば山」に対して、ほかに「金花山」「一石山」「破鏡山」「岐山」たどの名もある。それらに関する伝説を列記しておこう。


 仁明帝のころ、申納言在原行平は天皇の命によって、陸奥の国から金化石をひかせて美濃についた。この時、蔵王権現の神託により、石をそこにおいたまま行平は京へ上った。その後この石を金大明神という。

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 金神社縁起には次のようにいう―景行天皇のころ、三種の神器のひとつ「むらくもの剣」が夜になるとぬけだす。うらないによれば「奥州に金石あり、これに心をうばわれて」というので、この金石を京都へとりよせることになり、イニシキのミコトが奥州に下向。来てみると同形の石八個があつて、どれが金石かわからないが亡き母君の教えで鏡を当てると、金石は鏡を破るという。これによって金石を得、かつがせて京都に向うことになった。この間天皇につげ口をするものがあり、京都からはミコトを討つための軍が出るの始末だ。美濃へ来たときこの金石を椿原(今の丸山)におさめて合戦におよんだ。その時、石はたちまち三十六丈の山となりミコトと若宮はこの山に入り行方はわからなくなった。天皇はこの始終をきかれ、椿原金山のふもとに社殿をつくり給うた。これが伊奈波神社の始まりであると
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 ほかに一石山に関して --むかし雄総に男あり、父から勘当されて、諸国を放浪し奥州の金華山において後悔し記念の石を一個持ち帰ったところ、父はこれをウソだとののしって、力まかせに投げた。石は人にふまれるのをきらって、一夜のうちに山となったという。
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いずれも奥州の金華山に関係あるようなそぶりがあるのは、どうしたことか。奥州金華山の名はすでに高く古いということはいえそうてある。
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by ultramal | 2006-08-12 13:58 | 伊奈波