◎Ultraはウシトラのモジリ◎       


by うるとら

<   2006年 07月 ( 25 )   > この月の画像一覧

熊白檮が葉

命の 全けむ人は

畳薦(たたみこも) 平群の山の

熊白檮が葉を 髻華(うず)に挿せ その子



思国歌  ヤマトタケル







はしけやし 我家の方よ 雲居立ち来も

片歌 







嬢子(をとめ)の 床の辺に

我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや


                       ヤマトタケル

[PR]
by ultramal | 2006-07-30 17:37

梯立の 熊来のやら

「梯立(はしだて)の 熊来のやら(石川県中島町の海)に

新羅斧 おとし入れ わし

懸けて懸けて 勿泣かしそね 浮き出づるやと見む わし」

〔万葉集(七五九年)十六巻〕
[PR]
by ultramal | 2006-07-30 17:20 | 万葉集

伊吹山が崩壊

伊吹山が崩壊していた。
駅で電車を降りたら、崩壊していた。
岩がごろごろ落ちていた。
なんだろうと思って、見てみると伊吹山が崩壊していた。
中がコンクリートで人工だということがわかった。

意味のわからない夢だった・・・・


最近、夢はあまり覚えてなくて気にとめてなかったけど
ひさびさにインパクト大な夢だった。
[PR]
by ultramal | 2006-07-30 12:37 | 夢日記

日本書紀 巻第六

五十瓊敷命

 三十年の春正月の己未の朔甲子に、天皇、五十瓊敷命・大足彦尊に詔して曰はく、「汝等、各々願しき物を言せ」とのたまふ。兄王詔さく、「弓矢を得むと欲ふ」とまうす。弟王詔はく、「皇位を得むと欲ふ」とまうしたまふ。是に、天皇、詔して曰はく、「各情(みこころ)の随にすべし」とのたまふ。即ち弓矢を五十瓊敷命に賜ふ。仍りて大足彦尊に詔して曰はく、「汝は必ず朕が位を継げ」とのたまふ。
  三十二年の秋七月の甲戌の朔己卯に、皇后日葉酢媛命一に云はく日葉酢根命なりといふ。薨りましぬ。臨葬らむとすること日有り。天皇、群卿に詔して曰はく、「死に従ふ道、前に可からず、いふこと知れり。今此の行の葬に、奈之為何(いかにせ)む」とのたまふ。是に、野見宿禰、進みて曰はく、「夫れ君主の陵墓に、生人を埋み立つるは、是不良し。豈後葉(あにのちのよ)に伝ふること得む。願はくは今便り事を議りて奏さむ」とまうす。則ち使者を遣して、出雲国の土部壱佰人(はについちももひと)を召し上げて、自ら土部等を領(つか)ひて、埴(はにつち)を取りて人・馬及び種種の物の形を造作りて、天皇に献りて曰はさく、「今より以後、是の土物を以って生人に易えて、陵墓に樹てて、後葉(のちのよ)の法則とせむ」とまうす。天皇、是に、大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔して曰はく、「汝が便議、寔に我が心に洽へり」とのたまふ。則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号けて埴輪と謂ふ。亦は立物と名く。仍りて令を下して曰はく、「今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹てて、人を傷りそ」とのたまふ。天皇、厚く野見宿禰の功を賞めたまひて、亦鍛地(かたしところ)をたまふ。即ち土部の職に任けたまふ。因りて本姓を改めて、土部臣と謂ふ。是、土部連等、天皇の喪葬を主る縁なり。所謂る野見宿禰は、是土部連等が始祖なり。

  三十四年の春三月の乙丑の朔丙寅に、天皇、山背に幸す。時に左右奏して言さく、「此の国に佳人有り。綺戸辺(かにはたとべ)と曰す。姿形美麗し。山背大国の不遅が娘なり」とまうす。天皇、玆に、大亀、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。忽ちに石に為りぬ。左右に謂りて曰はく、「此の物に因りて推しはかるに、必ず験有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺を喚して、後宮に納る。磐衝別命を生む。是三尾君の始祖なり。是より先に、山背の苅幡戸辺を召したまふ。三の男を生む。第一を祖別命と曰す。第二を五十日彦命を曰す。第三を胆武別命曰す。五十日足彦は、是石田君の始祖なり。
  三十五年の秋九月に、五十瓊敷命を河内国に遣して、高石池・茅渟池を作らしむ。
  冬十月に、倭の狭城池及び迹見池を作る。
  是歳、諸国に令して、多に池溝を開らしむ。数八百。農を以って事とす。是に因りて、百姓富寛ひて、天下泰平なり。
  三十七年の春正月の戊寅の朔に、大足彦尊を立てて、皇太子としたまふ。
  三十九年の冬十月に、五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居ましまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名けて、川上部と謂ふ。亦の名は、裸伴 裸伴、此をば阿箇播娜我等母(あかはだがとも)と云ふ。 と曰ふ。石上神宮に蔵む。是の後に、五十瓊敷命み命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。 一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥川上宮に居まします。鍛名(かぬちな)は河上を喚して、太刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部、扞せて十箇の品部(とものみやつこ)もて、五十瓊敷命に賜ふ。其の一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂邑より移して、石上神宮に蔵む。是の時に、神、乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしめむ。是、今の物部首が先祖なり。

  治世八十七年春二月、丁亥の朔辛卯、五十瓊敷命、妹大中姫に謂りて曰はく、「我は老いたり。神宝を掌ること能はず。今より以後は、必ず汝主どれ」といふ。大中姫命辞びて曰さく、「吾は手弱女人なり。何ぞ能く、天神庫に登らむ」とまうす。神庫、此をば、保玖羅(ほくら)と云ふ。五十瓊敷命の曰はく、「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯を造てむ。豈庫に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰はく、「天の神庫も樹梯の随に」といふは、此其の縁なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに、石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。昔丹波国の桑田村に、人有り。名を甕襲(みかそ)と曰ふ。則ち甕襲が家に犬有り。名を足往(あゆき)と曰ふ。是の犬、山の獣、名を牟士那といふを咋ひ殺しつ。則ち獣に八尺瓊の勾玉有り。因りて献る。是の玉は、今石上神宮に有り。
 
  八十八年の秋七月の己酉の朔戊午に詔して曰はく、「朕聞く、新羅の王子天日槍、初めて・・・・・・ 

―新羅の王子、天日槍の説話につづく―







  日本書紀(二) 岩波文庫 
  校注  坂本 太郎・井上 光貞・家永 三郎・大野 晋 
[PR]
by ultramal | 2006-07-30 02:20 | 古事記・日本書紀

神武東征

・・・・・・・・
こうしてさらに、吉備の国から東へ東へと上って行ったが、やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速に渡り過ぎて、波静かな白肩の港に碇泊した。この時、登美の地に住む那賀須泥毘古(ナガスネビコ)、すなわち長い脛をもった男が、軍隊を起して、東上して来た船を待ち向かえて一線を挑んだ。そこで一行は、船の中に用意していたあった楯を取り、岸辺に下りて防戦した。それゆえに、この土地の名を楯津と言い、また今に、日下の楯津とも言っている。こうして登美毘古(トミビコ)すなわちナガスネヒコの軍隊との戦いが、今をたけなわの時に、たまたまトミビコの放った矢が、兄のイツセノ命の手に鋭く突き刺さって、深手を負わせてしまった。そこでイツセノ命が言うには、
「私は日の神の御子なのであるから、敵を東のかた、すなわち太陽の方角に置いて戦うのは、宜しくないことだ。それゆえに、賎しいナガスネビコごとき者に、痛手を受けたのだ。今からは道を迂回し、太陽を背に負う陣形を取って、敵を撃ってやろう。」
このように誓いをして、南の方へと迂回したが、のちの和泉灘である血沼の海に至って、傷を受けた手を洗った。それゆえ、ここを血沼の海と言う。そこからさらに迂回して進んで行くうちに、紀の国の男之水門まで行ったところで、
「賎しい奴のために手傷負って、今は死ななけらばならないのか!」
このように誓い立って、雄たけびをあげる。ついにその息は絶えた。この雄たけびゆえに、この場所を男之水門と言う。稜もまた、同じ紀国の竈山にある。
兄君を喪ったカムヤマトイワレビコ命は、悲しむひまもなく軍隊を引き連れて、さらにその土地から迂回をつづけ、やがて、熊野の村へと着いた。その時、巨大な熊がちらっと姿を表わして消えうせた。この熊は、熊野山に住む荒々しい霊力を持った神であって、その毒気に触れたカムヤマトイハレビコノ命は、あっという間に正気を失ってしまい、部下の軍隊も、皆々、正気を失って死んだように寝込んでしまった。この危急の際に、熊野の、高倉下(タカクラジ)という名の者が、一振の剣を持って、天神の御子の寝ているところに参り、これを献上した。御子はこの霊剣の功徳で、さっそく正気に復り、
「ああ長いこと眠ったことだ。」
こう呟いた。
そしてタカクラジのもたらした剣を受取ったが、かの熊野山に住む荒々しくすさまじい神は、まだその剣を揮わないうちに、もう自然と切り倒されてしまった。また、正気を失って寝ていた軍隊の面々も、皆眠りから覚めて起き上がった。
そこで天神の御子が、この剣を手に入れたその由緒を尋ねたので、タカクラジは次のように答えた。
「私が眠っておりますと、夢の中に、アマテラス大御神とタカギ神との二柱の神が、みことのりしてタケミカヅチノ神をお召しになり、仰せられますには、
『葦原中国は、ひどく騒がしくて、乱れているようだ。我が御子たちも、病を得て困り果てているように思われる。かの葦原中国は、なんと言っても汝が平定して来た国であるから、今度も汝タケミカヅチノ神が降って行くがよい。』
このように命じられましたところ、答えて仰せられますには、
『私自身降って行きませんでも、この前に国神を帰順させました時に、主とし平定の役目を果たした剣がございます。これを私の代わりに降しましょう。』
 この剣の名は、佐士布都神(サシフツノカミ)と言う。
 別名を、甕布都神(ミカフツノカミ)と言う。
 また別名を布都御魂(フツノミタマ)と言う。
 この剣は石上の神宮にある。
『またこの剣を降す方法は、タカクラジの住む倉の棟に穴をあけて、そこから落とし入れましょう。』
このようにお答えになりました。
神が、私めに、
『汝、朝になって目を覚ましたならば、めでたい剣が手に入ろうから、それを捧げ持って天神の御子に献上するがよい。』
このようにお教えになりました。朝になりましてうちの倉を見に行きますと、まこと夢の中で言われました通りに、この剣がございました。そこでさっそくながら、献上しに参った次第でございます。」
このようにタカクラジが答えて言った。
さらにカムヤマトイハレビコ命の夢の中に、タカギノ大神が現れて、次のように教えて言った。
「天神の御子よ。この土地から奥の方へ深入りしてはならない。この奥には、荒々しくすさまじい神々が、多勢いることだ。今、天から八咫烏(ヤタノカラス)を送り届けてやろう。このヤタガラスが道案内をしようから、その飛び立っていくのに従って、道をとるがよい。」
このように言った。
そこで夢の中で教えられた通りに、ヤタガラスのあとを追って旅をつづけると、やがて吉野河の河上に達した。
そこに、割竹を編んだ筌を河の流れに沈めて、魚を取っている者がいた。天神の御子はこれを見て、
「お前は誰か?」
こう尋ねたところ、
「私は国神で、名は贄持之子(二へモツノコ)と申します。」
このように答えた。
 これは、阿陀の鵜養の部の祖先である。

 ・・・・・・・


古事記 中巻






『古事記・日本書紀』

日本古典文庫1 新装版
福永 武彦/訳
河出書房新社

1988.1
[PR]
by ultramal | 2006-07-30 00:04 | 古事記・日本書紀

金鵄



一二月の四日、我が軍は遂にナガスネヒコに対して攻撃を開始したが、力戦これつとめても、勝つことが出来なかった。すると不意に、一天にわかにかき曇って、物凄い豪雨となった。そこに、金色に光り輝く不思議な鵄が、虚空を掠めて飛んで来ると、天皇が手にした弓の尖端にとまった。その鵄(とび)の眩しく輝くこと、まるで稲妻のようだった。このために、ナガスネヒコの軍隊の者どもは、一人残らず眩惑されて、戦う気力を喪ってしまった。ナガスネヒコの長髄は、もとは村の名であり、これによってまた人の名をとした。我が軍が鵄(とび)の吉兆を得てからは、世の人はこの村を鵄(とび)の村と名づけている。今鳥見というのはそれが訛ったものである。

 日本書紀 人皇の部








『古事記・日本書紀』

日本古典文庫1 新装版
福永 武彦/訳
河出書房新社

1988.1
[PR]
by ultramal | 2006-07-29 21:58 | 古事記・日本書紀
・・・・・・
この時敵の放った流れ矢が、天皇の兄君の五瀬命の肱に当り、我が軍は形成不利となって、それ以上前進することが出来なかった。天皇は憂慮して、心中、謀をめぐらして言うには、
「今、私は日の神の子孫であるのに、東に向かい太陽に面して敵を撃つというのでは、天の道にはずれている。ここで退却し、敵には我が軍弱しとの印象を与え、神祇を祭ってから、今度は太陽を背に、日の神の威光を負い、日陰の射すに従って敵をやっつける方がうよいだろう。そうすれば、剣に血塗らずとも、敵は必ずやしぜんと破れるだろう。」
このように説いたところ、誰もが、
「その通りでございます。」
こう答えた。
そこで、軍隊に命令し、
「しばらく止れ、前進するな。」
こう言って、やがて軍隊をひきいて退却したが、敵軍もあえて攻めかかろうとはしなかった。こうして草香の津に戻り、盾を並べ、声を揃えて、勇ましく雄誥をした。そこでこの津の名前を改めて、盾津と言う。いた蓼津と言うのはそれが訛ったものである。
始め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹の陰に隠れて、難をまぬがれたことがあった。
そこでその樹をさして、
「御恩はお母さんのようだ。」
こう言った。
そこで世の人が、その場所を名づけて母木の村と言った。飫悶廼奇(おものき)と言うのは、それが訛ったものである。
五月八日、我が軍は、茅渟の山城の水門、別名は山井の水門に、至った。その時、イツセノ命、イツセ命は流矢の傷がたいそう痛んだ。そして剣の柄をしっかりと握り奮い立って雄誥の声をあげると、
「なんという残念なことだろう。一個の男子として、賊のために手傷を負って、仇も撃たずに死んでいくのか!」
こう言った。
世の人が、そこでこの場所を名づけて、雄の水門という。
さらに前進して、紀伊の国の竈山に達した時に、イツセノ命は陣中に崩じた。そこで、竈山に葬った。

 日本書紀 人皇の部








『古事記・日本書紀』

日本古典文庫1 新装版
福永 武彦/訳
河出書房新社

1988.1
[PR]
by ultramal | 2006-07-29 21:11 | 古事記・日本書紀
P266~268

・・・・・壬申の乱と神武東征伝説との関係について若干述べておくこととしたい。しかしこの乱が神武伝説の形成と深い関係のあることは、実はすでに関晃氏によって説かれている。氏はつぎのようにいう。『記・紀』による限り、神武天皇の存在に関する古代人の関心は極めて薄く、壬申の乱において、高市県主許梅が神の託宣をのべて、「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の稜に馬と種々の兵器を奉れ云々」といったのが、神武天皇の名が確かな史料に出てくる最初である。おそらく神武伝説は広く知られていた物語ではなく、鴨氏のような一部豪族によって伝えられており、壬申の乱の戦況が神武の加護によって好転したと解されたため、そうした一部の氏族のもつ伝承が乱後大きく浮かびあがり、天武朝になってから進行した『記・紀』編纂の中に取り上げられ、今日伝えられるような形の伝説に定着したのである―――と。


まことに妥当な見解であると思う。しかしいうまでもなく、壬申の乱以前に、神武伝説が完成した形で一部豪族の間に存在したというのではない。乱の勝利によって大きく取りあげられるとともに、修正・加除が行われて現在の形に整えられたのである。それは、乱と記紀の神武伝説と比べてみると、左記のようにいくつか類似てんがみられるので、ほぼ誤りがないと思われるのである。

  1. 大海人はまず東国に走り、西を向いて反攻に移るが、神武は「吾は日の神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、(中略)今より行き廻りて、日を背負ひてこそ撃ちめ」といって、熊野をめぐる。(記・紀)
  2. 大海人は吉野宮から菟田への道をとっているが、神武は「吉野川之川尻」から「宇陁」に行く(記)。
  3. 菟田のほかに、墨坂の地名も、壬申紀と神武記、神武紀に共通して現れる。
  4. 壬申の乱の大和での戦いは、大伴氏の功績が最も大きいが、神武伝説においても、大和平定には大伴の祖道臣命の功が大きい(記・紀)。
  5. 壬申の乱において物部氏の中心人物と思われる麻呂は、大友皇子に従い、その最期まで見届けているが、天武朝に仕えて優遇され、その後も一族は栄えている。これは物部氏の祖饒速日命が、はじめ神武の最大の敵手長髄彦と共同しながら、最後にこれを殺して神武に帰順し、以後も物部氏が朝廷に重く用いられるようになったこと(紀)と筋道において一致している。
  6. 大海人は乱を平定した翌年即位した。神武も大和を平定した翌年即位した(紀)。


 神武伝説は以上のような諸点において、壬申の乱の史実と類似している。その中には、壬申の乱以前から神武伝説の要素として成立し、壬申の乱との類似は偶然にすぎないものもあるかもしれない。大伴・物部の祖が神武伝説にあらわれるのは、私自身がかつて論じたように、壬申の乱以前、おそらく六世紀前半以来のことと思われる。しかし、すべてを偶然の一致とすることも困難であろう。壬申の乱によって大海人皇子が皇位についた現実は、当時の宮廷貴族に深い印象を与えたに違いない。しかも大海人自身、自分を漢の朝廷をひらいた漢の高祖に比する考えをもっていたのである。上記の壬申紀に類似した神武伝説の諸点は、壬申の乱の経過にもとづいて作り上げられた部分が少なくないと考えてよいと思う。大伴・物部両氏の活躍にしても、壬申年以前の神武伝説にあっただろうが、細部については壬申の乱における両氏の活躍ぶりがとり入れられて、今日の神武伝説が成立したのであろう。
 




『壬申の乱』 直木孝次郎著 塙書房 1961年
[PR]
by ultramal | 2006-07-29 18:29 | 壬申の乱

五十瓊敷命

物部について書けて言われていたので・・・
メルマガのネタから~



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 (前略)

 ツヌガアラシトや天日槍は、前章の日光感精神話で、見たとおり、女のお腹に日光が射して、玉、或いは白石を生んでいましたが、岐阜の金華山にも、同類の伝承が残されていたことは、上に見た通りです。 「石を生む」話は、 高句麗の建国神話の中にも見られ伊奈婆の神の子の伝承を捕捉しているようです。


日光により懐妊した女が石のような固い卵を生みます。七歳にして、自ら弓矢をつくり百発百中、名前を「朱蒙」といいました。 「朱蒙」は、夫餘語で 「よく弓射る人」 という意味です。  しかし、その力を恐れた王子たちにより生地を追われ、逃れた地に新しい国に高句麗を建てます。 朱蒙は天下った武具を祭祀、 その力により王者の地位を保持しました。



 というように、朱蒙は、日光により懐妊した女が生んだ固い「石」の卵から生まれたといいます。 また、 "天下った武具を祭祀した"ことや、弓矢の達人であるところなどは、前章、日光感精神話で見てきたように、 剣や弓矢などが、時に「太陽神」の拠り代となっていた一連の神婚神話に、共通する所であると思われるのです。





  伊奈波神社には、現在、物部神社が合祀されています。物部氏といえば、軍事的な性格を帯びた氏族であることで一般的です。物部モノノフは武人の意を司ります。  実は、五十瓊敷命は、石上神宮の伝承で登場していました。 石上神宮は奈良の天理にある物部氏の神社であり、数々の武具が納められていると伝え聞いています。 五十瓊敷命は、武具の祭祀を司っておりました。


五十瓊敷命(イニシキ命)が茅渟の兎砥の川上宮で剣一千本を作り石上神社 に納めた。その後命ぜられて石上神社の神宝の管理者 となる。彼が老いた後、管理権は彼の妹の手を経て物部のトチネに委ねられる


また、高句麗の朱蒙は、「よく弓射む人」でありましたが、 日本書紀の景行記二七年には、美濃国に善射者(よくゆみいむひと)弟彦公のことが載せられていました。 これら、弓の達人や優れた武人を輩出したとのいわれのある美濃ですが、あるいは美濃は、関市の刀匠等の存在に見られるように、 朝廷の武器製造所(武儀ムギ郡がある)であった可能性は、多分にあったといえるでしょう。  五十瓊敷命の、五十はまた五十鈴の「イソ」で五十神イソ神となり「イソ神」は石神ともなるとの説があります。  未婚の女が日光により懐妊しその生んだ 「石」 は、伊奈婆の神の子でありました。 




  突然、聖書の話へと飛んでしまいますが、因幡社本縁起の五十瓊敷命の説話の祖形は、イサクとイシュマエルに繫がるのではなないかという気がしてきます。 イサクとイシュマエルは異母兄弟同士です。父親がアブラハムで、母親の腹違いの兄弟でした。イサクは、正統アブラハムの跡取り息子として、イスラエルの民の祖となります。イシュマエルは、母親ハガルと共に、荒野に逃れ、「弓を射るものの祖」となったと伝えられるのです。 ---その子孫は「野生のロバのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」---なぜか、高句麗を建国した朱蒙の伝承ともに重なり合います。朱蒙は、七歳にして百発百中、追われた生地を離れ、新しい国に高句麗を建てました。朱蒙の名は、「よく弓射む人」の意です。また、美濃には、「善く弓射む人」弟彦公の話が伝えられていました。
  イシュマエルは、アラブの民の祖となりました。世界の宗教戦争の根はここまで、遡ることができるというようにいわれております。平和な日本人には、なかなか興味の薄いことのようですが、世界ではこのようなユダヤとイスラムの怨恨がここに端を発するということは、知られた事実であると聞いています。


  このような過去のえぐりだしは、個人でも当然ありますが、民族間、国家観の間にも必ずあります。わたしたちは、このような事柄とは、無関係ではなく、なんらかの影響を相互に受けています。セラピーや、ヒーリングの手法が、おそらくこのようなことにも当てはまるであろうとおもわれます。つまり、表に出して、認めて、流す。このような過去にまつわるエピソードを何をこんなにも必死でくどくどと述べているのには、ひとつそうしたことが、挙げられると思います。ただ、表に出すことによって、このような呪縛からは開放されるでしょう。このような、呪縛は、誰しもが受けていることがらであるからです。このような対立は、二つの相克から生まれています。同じ血を分けた兄弟だったのです。同じ同胞(はらから)なのです。実は同じ、民族であったのです。同族です。イサクもイシュマエルも、アブラハムから出たのでした。いのちの源は、ただひとつです。わたしたちの根源をけして忘れないようにしたいものです。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


と、まじめな話をしたけど、

  1. 50, 五十
  2. 弓矢
  3. 双子

はみんなドゴン神話に繫がるモチーフらしい・・・
ということをは、シリウスの神話が
こんな身近に転がっていたということになる・・・・

http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sv=%B5%DD%CC%F0&sk=1

↑これすごい。
  「マル八」と書いた的を、四人の射手がそれぞれに射るとか・・・
[PR]
by ultramal | 2006-07-28 22:38

AQUA

  ~イエスの死と復活にかかわるのがマグダラのマリア~


その総称が淤加美神
龗(おかみ)は龍の古語




鉄鐸(さなぎ)

鐸鉾(さなぎぼこ)

御立生神事

梁塵秘抄(262) 南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す
          美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮

      (250) 南宮の宮には泉出でて 垂井の御前は潤ふらん 濁るらむ
             中の御在所の竹の節は 一夜に五尺ぞ生ひのぼる

    (416) 南宮の御前に朝日さし 児の御前に夕日・・・・
   
    (276) 浜の南宮は 如意や宝珠の玉を持ち
        須弥の峰をばかいとして、か いろの海にぞ遊うたまふ。


越南知
「大穴牟遲(オホナムヂ)」を「越南知(ヲナンチ)」「越南智」

南宮大社
石山寺


奈良東大寺のお水取り(3/1~3/14)。

お堂の上を巨大な松明が舞うさま
仏教の儀式でなぜ巨大な火の玉?


お水取りの儀式は
古代ペルシャの宗教ゾロアスターの影響を受けている




ゾロアスター教はシルクロードを通って中国へ伝わり、
本家ペルシャではイスラム教にとってかわられたものの、
今でもアジア各地に信者が散在している。

燃え盛る火を崇めることを特徴としていて、
松明を持った僧(鬼)が走り回るお水取りのクライマックス「達陀」は、
ゾロアスター教の儀式に似ているというもっぱらの説。



「韃靼とはモンゴル系の部族の一つの「タタール」から来た言葉であるが、その部族に限定せず、比較的広範囲な遊牧民たちを中国で呼んだ言葉である。従って、韃靼の妙法は彼ら遊牧民から中国へ伝来したものでり、恐らくは、紀元前七世紀頃中央アジアで生まれたゾロアスター教(拝火教)に由来し、これが中国に入ってきて取り入れたものと考えられている」


「赤井や赤田川のアカは赤色ではなくて、仏に供える水の閼伽を意味している。ラテン語のアクァはサンスクリット語のargya, arghaに由来する。この源流から東は日本まで流れて閼伽となった」という説明に出会う。
 ちなみに、ラテン語の「aqua」は(aquarium, aqualungなど)、サンスクリット語のargya, arghaと語源的に無縁ではない。
 つまり、「閼伽井屋」とは文字通り「(水)井戸」というわけである。










実は飛鳥時代にゾロアスター教徒であるペルシャ人たちが日本にやってきて、
各地の遺跡や儀式に影響を残していった・・・ 松本清張「火の路」
[PR]
by ultramal | 2006-07-28 21:51 | 遠敷