◎Ultraはウシトラのモジリ◎       


by うるとら

<   2010年 08月 ( 2 )   > この月の画像一覧

おわりのない

f0004379_115678.jpg




○○○神社は、古来 壷神社で、 


前方後円墳の・・・・・・・・・
[PR]
by ultramal | 2010-08-25 11:56 | 海上の森
f0004379_1053150.jpg
 武田信玄の紋

海上の森で色々聞いたが、だいぶ前なのでわすれてしまった。山田さんの論

私見
これは、レイラインにするとき、夏至のラインと、冬至のラインでこのような図像がずらずらと浮かび上がります。

 【由来】

 菱の語源ははっきりしないが、植物の実がするどく、とがっている意味だとか、
 葉がひしげたカタチからきたとか言われている。
 模様としては古くから存在し、正倉院宝物には菱紋の染織物、木工品などがあ
 る。
 武田氏が菱紋を使うようになった由来は、前九年の役(1050年)のときに、源
 頼義、義光親子が住吉神社に夷賊平定の祈願をし、そのとき神託によって拝領
 した鎧の袖に割り菱(武田菱)の紋があったからといわれている。

http://kirisai.hp.infoseek.co.jp/kamon2.html



海上の森 山田みち江著より

九本の矢の仕組み


九本の矢標具祭り

 武田信玄公の文献などを調べていると、なんと弓矢の仕組みで真実が隠されていることに気付いたのです。
 そして尾張山田庄に建立された信玄公の墓と山田家、古来からかかかわりがあった甲斐武田家の謎がわかってきたのです。

 かつて上菱野村海上の祭りが、江戸時代まで盛大に行われてまいりました。愛知郡の神社から五十社が集まり、瀬戸山口で合宿し、海上の天戸八剣宮、海上多度神社を参拝し、そして猿投神社へと馬を引き連れ、「ヤーサー、ヤーサー」とかけ声を出し、二万人もの人が山越えをした祭りです。現在は、それぞれの神社の祭りとして残っております。この九本の矢標具祭りが信濃山田守信玄の祭りとして行われていたのです。

 これは矢の仕組みという秘め事であったと思われ、これが武田信玄の秘密を解き明かすものです。


 九本の矢の内容というのは物見山桜ヶ池に伝わる大蛇伝説に関するものです。落ち武者となった山田信濃守という豪勇の武将が、武田信玄から頂いた十本の銀鷹の矢をもって、愛馬で猿投山に駆け登っているとき、猿投山の御廟、山頂付近にある西の宮か、あるいは、東の宮の谷あたりに、山が揺れるような山鳴りと共に現れた金の鱗の大蛇めがけて放ち、しとめたというものです。武将は、射止めたその大蛇の毒気に当てられ、毒が身体にまわり下り、他界したというのです。大蛇を射止め、毒気にやられ、猿投山頂から物見山の峰へと下り、桜ヶ池の堤まできて落馬し気を失いかけたところを、村人と山田庄の庄屋に助けられたが、介抱の甲斐もなく亡くなってしまったというのです。


 桜ヶ池の堤を越えると信玄の出城があった段丘状の山腹へと出ます。桜ヶ池には、今は上之山町の神社に移されている諏訪之尾神社という石碑が立てられており、諏訪湖には天竜の水神の伝説と、諏訪湖を発った竜が静岡の桜ヶ池まで下っていったという伝説が伝わっております。桜ヶ池という同じ名の池、信玄は諏訪法性の兜をかぶり、諏訪大明神の大将棋を用いていたということからも、桜ヶ池で倒れた武将は信玄に違いないと思われるのです。

 猿投山を揺るがすほどの山鳴りと毒を吐く金の鱗の大蛇の正体は一体なんだったのでしょうか?

 命を落とすこととなった一本の銀鷹の矢,現れた弓矢の糸仕組みは、ここ海上の地において信玄が亡くなったことをまさに示しているのです。そして一族の墓が隠されはしたのですが、明治から昭和の初めごろまでは、信濃山田守信玄として供養が続けられていたのです。
 この弓矢の糸仕組みが分かったのは、ついこの前のことなのです。私は、祟りとして知らされ、恐れながらも、信濃守山田守信玄公として御供養を再開し、続けさせていただく決心をしたのでした。


 皆様も、ぜひ、お出かけくださいませ。
ここは、流血の戦国時代に終止符を打ち、新しい平和な時代の夜明けを準備し、生み出した、世に知られることのなかった舞台裏だったのです。



弓矢の糸仕組み

 この伝説は、つまり、武田信玄はたった一本の矢によって他界したことを表したものなのです。生前は金の鱗の大蛇に象徴されていた信玄が、桜ヶ池までたどりつき他界し、金の天竜となって昇天したことを伝えたものなのです。金の鱗、これは立派な人物を表しており、この山田信濃守という豪勇の武将というのが、甲斐源氏であり、山田の一族であった武田信玄そのものを隠さなければならずに、表したものだったのです。(原文のまま)
 実際に我が祖先山田庄には七百五十両の口止め料として一戸当たり十三両ずつ、村人たちに渡されているのです。残りの軍資金で九本の矢標具の祭りが準備され、江戸時代になり、現在ににまで繋がれるような盛大な祭りが働き、尾張山田佐右衛門と手を組み、日本武尊の馬拾祭りが行われ、懐柔のため基盤が築かれました。

 秀吉の死後、天下は東西に別れ、敵味方となり、流血の大合戦の末に、怨恨を残し、徳川の世となり治まったのです。その渦巻く怨念、無念を鎮めるための平和の夜明けを民衆一人一人に胸に知らしめるまつりだったのです。


 この九本の矢の意味を調べているうちに、九という数には死を意味づけしてあることが分かってきたのです。死は四が一般的ですが、九は天地、特に天を指し、未来をつなぎとめるという重要な意味があるのです。九は求め求道し至ることができるという、特別な死を意味しています。武田信玄の死は、時代の左右をけっていするほどの重大な出来事だったのです。また海上は、何でもない普通だったらカイジョウと読むはずなのに、カイショとわざわざ読ませている。それは海上の地が会所、また御蔵入地と金銭のやるとりをし、相談する所であったことを隠していたのです。

 江戸時代、徳川家康が天下人となり、時代が移り変わり、武田は滅びたのです。隠さなければならない時代の中にあって、武田信玄の墓とされている甲斐山梨において多くは供養がなされております。それ以外にも、信玄の供養塔や石碑があります。その供養塔や石碑のある駒場、浪合、根羽、津具、田口、鳳来寺、三方ヶ原を結ぶと、なんと弓矢の形が浮かび上がるのです。
 番えられた矢は、足助に向かい、尾張の山中、ここ海上の山田庄の中心に至っているのです。


毎年春に、海上の森の山田さんのお宅で信玄公のお祭りを執り行なっていると聞いてます。
[PR]
by ultramal | 2010-08-25 11:17 | 海上の森