◎Ultraはウシトラのモジリ◎       


by うるとら
11月5日
 pm1:30~4:30

『ホピの予言』上映会 2004年版
-製作者辰巳玲子氏に現況を聞く-

高山別院庫裡ホール
高山鉄砲町6
参加費1000円



ホピの予言 : http://www.h6.dion.ne.jp/~hopiland/
Land and Life ∴ ランド・アンド・ライフ&映画『ホピの予言』公式サイト ∴ Hopiland



  ☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆・★・☆゚・*:.。.☆゚・*:.。.☆
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# by ultramal | 2006-10-12 22:54

 唄

Whale Song  &  Wheel Song

Forever


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# by ultramal | 2006-09-29 14:28

鹿島と香取

『祭りの古代史を歩く』より抜粋

More
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# by ultramal | 2006-09-26 00:03

金の鶏






■御首神社
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■御鍬神社
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■矢剣神社
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矢道川と伊吹山の2ショット↓
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■金生山
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そのままぶらぶら山際の方まで行ってみたら、神社の鳥居発見

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またまた金の鶏の看板&"陵山古墳"
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↑同じところ↓
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山の上の神社
名前も何もない謎の神社・・・
ここ全体古墳かもしれない。
奥のほうに、道があったが、多数蚊にくいつかれて断念
次は、武装(蚊よけ)してもう少し探検してみたい。


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# by ultramal | 2006-09-20 18:55 | その他神社
一目白! 龍王武録 ryuoh12.exblog.jp
「見てね、読売掲載!」
より
ひさしぶりにTBしてみました☆


読売新聞 http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo060914_1.htm
に掲載された模様です!

来て見て楽しんでいってくださいね~☆~☆
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# by ultramal | 2006-09-15 14:49
熱田神宮にある能楽殿が10月8日をもって閉鎖されることになりました。建物がなくなっても、子供達に何かこころに響くものを残してあげたい!!「そんな真心子供達に残すことができたなら~」という趣旨で手作りのイベントを開催する運びになりました。当日は、施設にいる子供たちをお招きして無料コンサートを開く予定です。 

もちろん、一般参加者大歓迎!!
みなさん、ぜひこの機会お誘い合わせの上お越しくださいませ☆



 
『ありがとうコンサート in 熱田神宮能楽殿』

 

   ●司会 ・・・ 神田 亜紀(かんだ あき)

   ●日本舞踊 ・・・ 神谷 あけみ(かみや あけみ)

   ●ヴィオラ ・・・ 小倉 渉

   ●ヴァイオリン ・・・ 安藤 正太郎(あんどう しょうたろう) 

   ●バリ舞踏 ・・・ スカル・サリ (Sekar Sari)

   ●バリガムラン ・・・ 名古屋バリガムラングループ 
                スアラ・スクマ (SUARA SUKMA)

   ●アフリカンパーカッションバンド ・・・ タムタム ヤポネシア
                         (TAM TAM JAPONESIA)

   ●オカリナ ・・・ 北川清隆(きたがわ きよたか)

  http://www.happy-square.com/nougakuden/modules/tinyd1/index.php?id=1



ありがとう、能楽殿・・・その幕を閉じるに当って、
私たちは何かをすべきではないかと思いました。
確かに建物自体はなくなってしまいます。
しかし、魂をゆさぶる素晴らしい感動はいつまでもなくならない、
・・・という思いが日増しに強くなってきました。
あるとき、一人が言いました。
「愛を信じてみようよ」
そのひとことで動き出しました。
「施設にいる子供たちを能楽殿にお招きして無料コンサートを開こう」
会場費その他の経費を計算してみると、約20万円必要だとわかりました。
呼びかけ人たちは、その一人一人が主催者として、またスポンサーとして、出演者として、浄財を出しながら、参加していくことになりました。
このアクションにあなたも参加していただければ幸いです。
 

 ●日時:平成18年9月23日(秋分の日)
    午前10時~午後12時 午後13時~午後16時
 
 ●会場:熱田神宮能楽殿(名古屋市熱田区神宮1-1-1 052-671-0852)



○この趣旨に賛同していただける方、寄付金を募集いたしてしております。

---------------------------------------------------------

寄付金の振込先

 郵便振替口座:00870-8-114898
 石浦 薫

※当日は会場での寄付金も受け付けております。

---------------------------------------------------------

http://www.happy-square.com/nougakuden/

このコンサートはみなさまの寄付金によって成り立っています。

 
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# by ultramal | 2006-09-13 17:55
という本が目にとまって読んだ。



「諏訪がわかれば日本の古代がわかる」というらしい....

諏訪には竜蛇信仰が色濃く残っているという。



  蛇の冬眠や脱皮を見た古代人は生命の再生を連想したに違いない

  さらに諏訪には性に結びついた信仰の痕跡もある。

  諏訪は日本のヘソと呼ばれ―――



諏訪信仰って・・・



ミシャグチが性神?

  御左宮神、御作神、ミシャグチ、シャゴジン、
  下流ではオシャモジサマ、御杓子様


ミシャグチ
「剣」


  ヤチホコ神と糸魚川のヒスイを象徴するヌナガワ姫との結婚

  そして生まれたのがタケミナカタである。



ヌナガワ姫・・・・?

綏靖天皇の諡号も「神渟名川耳」で、
天武のオクリナ諡号「天渟中原瀛真人」に対応する。
  http://ultramal.exblog.jp/2840173#2840173_1





天竜川の再生観

上社の摂社にあたる「荒玉社」

天竜川の最古名が麁玉河(あらたまかわ)であった

アラタマとは新しい玉(魂)への再生願望である、


花祭に展開する神楽のことをタマフユ(魂殖)の祭りとよんでいる。

一度、死の世界・白山に赴いた人びとがそこでタマフユの呪術を授けられ、より健やかに生まれ変わって復活する儀式である。

以前、御室には竜頭が飾られていると述べたが、白山にも竜頭はあった。
白山も御室も他界と現世とを結ぶ子宮のようなものであった。唯一、その空間を往来できるものが竜蛇であった。



天竜川 母なる川--その悠久の歴史と文化
諏訪信仰と天竜川 <大庭裕輔> より抜粋
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# by ultramal | 2006-09-05 20:02 | 諏訪

おに


大笠をつけた鬼『書記』

「竜に乗って空を飛ぶ者がいた、そして容貌が唐人に似て、青い油笠を来て、西に向かって馳せ去った」

唐人の容貌は中国人ではなく西アジア人の容貌

「竜」 「青」 等々はすべて大海人を示す



日本が当初から統一国家だったというのは架空の神話であり、明治時代以来の皇国史観が強調したものである。
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# by ultramal | 2006-09-02 22:14 | 古代天皇家と日本正史

八岐の大蛇伊吹大明神

『平家物語』に「出雲にて素盞鳴尊に害せたりし八岐大蛇、天降り……毒蛇となりて不破関の大路を伏塞ぎたり。.……さる程に八岐の大蛇伊吹大明神は尊(日本武尊)に跳り越えられ…」とみえる(『雲州樋河上天淵記』『伊福貴神社縁起』等も同趣)
 ⇒*伊富岐神社 http://ultramal.exblog.jp/2963485/

岐阜県揖斐郡池田町には、養基ヤギ神社があって、よう~く読んでみると、養基大神は、八木大明神で、八岐大明神との記述が見られます。八岐大明神とは八岐の大蛇のようでもあります。揖斐郡池田には、大海人の壬生(乳母)がいたとのうわさがある、壬生郷があるともいわれています。または、不破を塞ぐ伝令を受けた、湯沐令、多臣品治のいた湯沐邑は、この壬生郷であったとの説もあります。ちなみに、後に春日局(徳川将軍家光の乳母)は、揖斐郡春日村(現、揖斐川町)から出ていました。

 上記、伊吹山の荒神八岐大蛇は、不破の関を塞いでいたといいます。不破の関を塞いで、壬申の乱に臨んだのは、大海人皇子でした。上の伝説を仮に、信じれば、八岐大蛇は、大海人であるとも読めるような気がします・・・・。

 
 
 ということは、伊吹山の神は大海人・・・・。八岐の大蛇「ヤマタノオロチ」は、実は大海人・・・。
 ちなみに、天のヤチマタ(八街)で道を塞いでいたのは、サルタヒコ・・・・天の八街というのは、八つの辻が分かれた、辻の神、塞の神、ことも指したりします・・・・。いわゆる境の神のことでもあります・・・・・・。八剣の神は確か熱田の神でしたよね・・・。
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# by ultramal | 2006-08-16 22:52

多岐神社

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# by ultramal | 2006-08-15 22:00 | その他神社

草薙の剣の疎開


中日新聞「この国の味噌」


*<二つの神宮> 「神器守れ」極秘疎開  2006.8.13(日)
http://www.chunichi.co.jp/essence/060813T1239.shtml
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# by ultramal | 2006-08-15 11:57 | 日記

伊奈波神社縁起巻物から



□ 伊奈波神社の創祀 □


『美濃国第三宮因幡杜本縁起』の伝えるところによれば、


  1. 景行天皇が武内宿禰を派遣し、五十瓊敷入命一族を祀る社壇を椿原金山麓に祀ったという。
  2. その後、天下分け目の占代最大の内乱、壬申の乱の際、武略の神として神験を顕わして厚見郡を御神領として定められた。
  3. 椿原は稲葉山(因幡山・伊奈波山)の西麓、現今では丸山と称する小丘上で、境外摂社丸山神社の社地が旧鎮座地である。
  4. 社名は現在、伊奈波神社と称されているが、古くは(因幡)との社名であった。


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藤原朝臣経朝が康元年中、当社の額を書く際、正一位因幡大菩薩と載せたとあるが、康元年中ではなく文永四年(一二六七)であり、大菩薩でなく「正一位因幡大神」である。現在、経朝の神額(35×68cm)が遺されているが、それは「文永四年丁卯姑洗二日」と刻まれ、文永の役、つまり蒙古襲来であったことから伏敵祈願のものと見做されている。姑洗とは「陰暦三月に配す」ことである。このように、承和十二年(八四五)七月、〈伊奈波神〉と記述されていたのにかかわらず、この因幡を社名にしていた理由は明らかではない。『木曽路名所図会』には「因幡神社」の項に、「此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり」と伝えているが、『美濃国第三宮因幡社本縁起』の金石伝説の中に垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命は、勇猛果敢にして文武に優れ、因幡守に補任される。 と記されているので、ご祭神に因む社名であることは想像に難くはない。古社の由緒を示す文献としては、弘仁式、貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則としての『延喜式』五十巻がある。延長五年(九二七)に撰進したものであるが、その巻第九・十(神祇十)に「神名帳」があり、この巻第九.十に登載される神杜を「式内杜」といい、厚見郡所載の三座は比奈守神杜、茜部神杜、物部神杜である。

伊奈波神杜は『延喜式』の「神名帳」に記載されていないが、京都・吉田杜権預・鈴鹿連胤の著した『神社覈録』下(同朋会・昭和四十六年七月二十日刊)に、物部神社を次のように記している。

物部は毛乃々倍と訓べし、
祭神五十瓊敷入彦命、渟熨斗媛命、日葉酢媛命、十千根命、
社説、岐阜稲葉山に在す。古今因幡明神と稱す。

といい、『延喜式』に収載する物部神社は伊奈波神杜であることは『伊奈波神社略史』に詳述されているところである。南宮大杜も同式に仲山金山彦神社と登載しているように、伊奈波神杜を物部神杜とあっても不都合ではない。

因みに、仲山金山彦神社の「仲(中)山は中国の『山海経』の一つ「中山経」が産鉄の世界をあらわしたもの」(真弓常忠著『日本古代祭祀と鉄』・学生杜・昭和五十六年十二月二十五日刊)で製鉄の神金山彦命を祀り、美濃国一宮と称されている。
 文化二年(一八〇五)版行になる『木曽路名所図会』にも、

  厚見郡岐阜稲葉山の麓に鎮座あり、延喜式云、物部神杜、物部氏の祖也。

とある。また次いで、
 当社はじめ伊奈波山椿原に鎮座し給ふ。天文八年のころ、齋藤秀龍城を築く時、今の地に遷座ある。又土人の諺に云、此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり。と伝承している。 一方、『美濃国神名帳』に記載され、物部十千根命を祀る従五位下物部神社は、稲葉山南麓の長森岩戸に鎮座していたが、齋藤道三が稲葉山を居城とするに際して伊奈波神杜に合祀されることとなったと伝えられる。

ここで、伊奈波の神と物部氏との関わりについてもふれておきたい。
伊奈波の神は、垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命で、『日本書紀』垂仁天皇三十年春正月の条によれば、垂仁天皇から五十瓊敷入彦命は弓矢、、すなわち武具を司どることを命じられ、後述するように回二十九年冬十月の条に、劔一千口を作り、石上神宮に蔵め「王権の武器庫」としての石上神宮の神宝の管掌を命じられたと記されている。同八十七年春二月の条には五十瓊敷入彦命が管掌した石上神宮の神宝を同母妹、大中姫命を経由して物部十千根命に委譲されたとあることで明らかである。*1
 また、物部氏と美濃国のつながりは、第十三代成務天皇の御代に物部十千根命の孫、臣賀夫良命が三野後国造として着任したことが『先代旧事本紀』の「国造本紀」に記されており、五十瓊敷入彦命の妃、渟熨斗媛命を祀る金神杜境内に「賀夫良城」と称する古墳があり*2 その足跡を伝えている。
 明治期に調査された『美濃国式内国史見在神杜明細取調書』によれば、高木真蔭氏の説として臣賀夫良命の着任と前後して・尾張.美濃には、物部氏が東進し、物部印葉連なる人物が、尾張国中島郡稲葉村(現在の稲沢市稲葉町)と美濃に伊奈波神を祀ったとあり、継体天皇の御代、物部金連によって金神杜が両国に祀られたとの説をあげるも確かな論拠にとぼしいと言えよう。



・・・・・・・


伊奈波の神を「製鉄の神」と位置づける興味深い論考がある。
今津隆弘の「古代美濃考-神の系譜と伝承を中心にして-」
(「神社本廳・教学研究所紀要」第十号・平成十七年三月十五日刊)

 ・長良川の「ながら」は砂鉄を産する地名にちなむ名前
 ・稲葉山は〈鋳物場いものば〉がなまった言葉とも考えられる


・・・・・・・

ところで、延暦六年(七八七)にまとめた『日本霊異記』に「女人の石を産生みて、之を以て神とし齋きし縁」第一の条に、次のような〈産石説〉が記載されている。
美乃国方県群水野の郷楠見の村に、一人の女人有りき。姓は県の氏なり。年二十有余歳に迄びて、嫁がず、通はずして、身懐妊めり。逕ること三年にして、山部の天皇のみ世の延暦の元年の癸亥の春の二月下句に、二つの石を産生みき。方の丈は五寸、一つは色、青白の斑にして、一は色、専(もっぱら)青し。年毎に増長す。比べる郡に名は淳見と日ふ有り。是の郡の部内に大神有り。名は伊奈婆と日ふ。卜君に託ひて言はく、「其の産める二つの名は、是は我が子なり」といふ。因りて、其の女の家の内に、忌離を立てて斎けり。往古より今来(このかた)、都(かつ)て見聞かず。是れも亦我が聖朝の奇異しき事なり。


延暦元年(七八二)の女人が石を生む物語である。方県郡は現在の岐阜市長良、忠節、黒野附近の地域で、水野は長良附近であるという。淳見は厚見であり、岐阜市内を指した郡名である。淳見郡の伊奈婆神とある。伊奈婆神は水野郷楠見村の女人に神託して使わしめたことは、伊奈婆神の霊験を如実に伝えている。『日本霊異記』のこの伝承は、従来式内杜方懸津神社(岐阜市長良八代)にまつわる所伝とされるが、今津氏は私見として五十瓊敷入彦命の妃、淳熨斗姫命を祀り、安産信仰のある金神社*1 (岐阜市金町)の境外社の黒岩神杜は「神石」と言われる黒岩石を祀るが、この地を古くは金津といい周囲に金町・金岡町・金宝町など「金」の地名が鉄を意味することに着目して、黒岩神杜の所伝と論考している。
 然し乍ら方縣津神杜も見逃しがたいものが存在する。それは日子坐王の子、丹波道主命の妃・丹波之摩須之郎女を祀る古杜であることを考えなければならない。
 ここで、角田政治編になる『続最新大日本地理集成』上巻・交通名勝之部(隆文館・大正五年十二月十五日再版)を掲載しておきたい。なお、同集成には伊奈波神杜の波を葉と印行していることを言及しておきたい。
 伊奈葉神社、市の東端稲葉山の西麓にあり。岐阜市の総鎮守にして、 今、縣社に列す。 五十瓊敷入彦命を祭り、 景行天皇御宇第四十四年丸山の北、 椿原の地に創建せしを、 天文八年現地に移転したものなり。 尾州徳川光友、 貞享二年社殿を修築し、壮麗なる結構美観を極めたりしが、 明治二十四年の震火災に罹りて鳥有に帰し、明治三十年再建成りしも未だ旧観に及ざるものあり。社域春桜秋楓の美に富む。 丸山神杜市内丸山の丘頂にある小宇。現今伊奈葉神社の一摂社たるに過ぎざれども、 地は前記伊奈葉神杜創建の旧址たるを以て名高く、社域に烏帽子岩あり。

と伝えている。

・・・・・・・・・


「伊奈波神社 古縁起について」 
 伊奈波神社宮司 東道人

-以上抜粋-



*1  http://ultramal.exblog.jp/2938639/
*2  http://ultra3040.exblog.jp/2511409/ 「金神社」
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# by ultramal | 2006-08-13 12:32 | 伊奈波

まとめ

イニシキをまつるイナバ神社が丸山の旧社地にあったが、
齋藤秀龍城を築く時、今の地に遷座
今の伊奈波神社に移動させた。

物部神社が伊奈波神社である。

古くは因幡明神といったらしい。

(物部十千根を祀る従五位以下が、長森の岩戸に鎮座していた。
道三が稲葉城を居城とする際、伊奈波神社に合祀した)


金山はすなわち鉄の神

金の王なる哉・・・






因幡の白うさぎ
しらぎの鸕

ガマは泉のこと
このあたりの方言らしい
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# by ultramal | 2006-08-13 11:49 | 伊奈波

養老 

養老に、白鳥神社があった。



古事記の編者 太安万侶は 、美濃の国、現在の揖斐郡の出身といわれている




→http://www.usiwakamaru.or.jp/~yoro/history/bunngakusannpo.html
養老町観光協会  文学散歩より
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# by ultramal | 2006-08-12 18:42


夫、因幡大菩薩と申たてまつる御ことは、人王十一代垂仁天皇の第一の王子、御名を五十瓊敷入命と号す、御たけ一丈あまりの御神なり。よのつねこゝろさしをふりやくのみちにかけ、思を文道の葉にとゝむ。りきりやうゆうけんにして世にすくれさせたまひ、才智くわうはくにして、よ人にはこえたり、されとも、御くらゐにつき給はさりし事御のそみありしゆへや、むかししつた太子はわうくうをしのひいて、たんとくせんにのほり、御しゆきやうありしゆへ、三かいの法王となつて、つゐに五百の声聞(しゃうもん)を利し、かねては八方の大衆をみちひきたまふ。いまのいそにしきいりのみこと御即位をのかれさせ給し御こと、ひとへに国家のあんせんをまもり、弓箭のしゆことなりたまはんとの御せいくわん、誠に心さしのなすところゆへあり。さるによつて、第二の王子を御くらゐにつけまいらせ、人王十二代景行天皇と申たてまつるとなり。黍もいそにしきいりのみこと居(きょ)を当国毛利郷にしめき。月ををくり給ひしおりふし、朝家におゐて神代よりつたはりし三種の神器のそのひとつ宝釼夜なゝうする事あり。天皇大きにおとろき、しんきんをなやまし、すなはちはかせをめし、うらなわせ給へは、奥州に日本第一の金の丸ひとつの石となりてあり。ほうけん、くたんの金石に心をかけ、禁中を出るとなり。彼金石を鳳闕(ほうけつ)におさめられは帝都はんしやうして朝威(てうい)四海におほい、天下泰平にして聖化国土におよふと云々。于時中臣部豊益に謀て、金石をとりまいらすへきよし宣下せらるゝの間、ちよくてうにまかせけちをくわふといへとも、国民等かの金石はたうこくのしゆことして往古よりこのかた此国を出す事かなひかたきよし申、けんしたてまつらさるあいた、主上いよ~けきりんあつて、第二ヶ度のちよくしにやまとたけのみことにせんかせらるゝ時、天照太神よりあまのむらくものけんをあたへ給ふ。此むら雲の劔と申は、そのかみそさのおのみこと雲州にして大地の尾よりとりいたし、天せう太神にたてまつりしほうけん也。くたんのけんをぬいてふりたまへは、四方一里の草木かりたいらくるゆへ、草なきの劔とも申也。かくのことく東夷をせめほろほし給ふといへとも、金石におゐてはつゐにとり得たまはす。第三度めにいそにしきいりのみことに宣下ありて、景行十二年十一月三日、やまとのくにまきむくひしろの宮をたちたまひ、奥州におもむき、くたんの金石をたつね給ふに、たかさ三尺六寸、まろさ八尺なるをえたまへり。すなはち御随身あつて同十三年二月御上洛ありしとなり。其金石、大ほさつをしたしみ申にや、当国厚見のこほりにおゐて一夜のうちに三十六丈の山とけんし、鎮座となる事、神通不思議、神反自在の道理なり。ことに、いそにしきいりの神号は、かたしけなくも大梵天皇みつからいなは大ほさつとさつけまいらせらる事、古今無双のきすい、あふくへくたつとむへきものなり。しかれはすなはち天皇(景行天皇)大臣武内宿祢をちよくしにさし下され、椿原金山のふもとに社壇をかまへ、同十四年二月十六日、因幡大菩薩とあかめたてまつる。あつみのこほりを御敷地にふせられ、しかつしよりこのかた四季の御神楽、二きのほうゑやむことなし。れいけんいよ~あらたにして、景行の御宇より三十二代用明天皇の御宇にいたるまて、月をかさね年をつもりて五百の星霜(しゃうそう ほししも)ををくるところに、百済国より仏教僧尼本朝へわたるその僧の中に難行法師といへる人あり。
天の告(つげ)を得、夢中にみのゝくにあつみのこほりいなは山にして仏菩薩かすおほくあつまり光明かくやくとして、まことに浄刹にことならすとおほえて夢さめぬ。すなはち当国へたつね入、当山によちのほる。そも~此地のていたらく、西は寺杜きゝとして白馬寺のほとりににたり。北に大河(号因幡川)まん~として流沙川のきしにひとし。

東南山岳峨々として黒鷲嶺のふもとのことし。かるかゆへに此勝地をしめて籠居し勤行する事一千ヶ日、三宝にきせ、いしていはく、こひねかはくは十方三世一切の謝仏、我に正法をしめし、御神体を現したまへと一心不乱に修念する時、夢中に童子きたつてつけていはく、我神体をあふき見んとほつせは、東方に大きなる池あり。達地目(だちぼく)の池のほとりにかならす応現あるへしと云々。翌日彼所に莅てそんたいを念し呪を誦し、たんせいをぬきんつるところに、かつちうをたいしたる武者数十き、白雲に乗て見え給ふ。難行再拝称名していはく、ねかはくは御本地を示し給へ、御本誓をあふきたてまつるへしときせいいたす時、神託にいはく、我在世のむかしはふりやくをむねとしていそのかみの神宝をつかさとる。垂跡のいまは金山に住してくとんの衆生を利し、もつはら一天四海安穏豊饒五穀成就と守る。頌日、


 我是弥陀     此山垂跡
 われこれみだ   このやますいじゃく

 現大菩薩     済度衆生  文
 げんぼさつ    さいどしゆじやう


干時難行法師、神勅にまかせて一々に本地の徳をひろめ、をの~に垂跡の化をほめたてまつり、是をしるしていはく、

一、中宮因幡大菩薩   本地阿弥陀如来本 
一、宮峯権現       本地薬師如来(御母也)
一、下宮金大明神    本地聖観世音菩薩(御息所)
一、大行事         本地虚空蔵菩薩(御嫡子)
一、后御前         本地十一面観音化身
一、大神門         本地金剛界大日如来(已上三所王子是也)
一、児御前         本地勝軍地蔵菩薩、
一、高山          本地釈迦如来化身、
一、野宮          本地毘沙門天王化身、
一、祖曽路宮       本地大聖文殊師利菩薩化身、
一、峯八王子       本地八大金剛童子、
一、惣社大明神      本地千手観音化身

かくのことく難行法師おこなひあらはし、御宝殿をつくりあかめたてまつるところに、人王四十代のみかと天武天皇、大友の皇子におそはれさせたまひて、九禁をさつて大和のくによしのゝおく、清見原にしのはせおはしけるか、ひそかにみのゝくにふわのこほりにつかせたまひ、たうごくならひに尾張のぐんびやうをあつめ、ふわの関をかため、御かつせんありし時、きよみはらの天皇、南宮法性大菩薩にちかひたまふ。今度のかつせんに勝利を得、本意をとけは、たうごく一宮にあかめたてまつるへきよし御きねんのみきり、神託にいはく、いなは大ほさつ大行事の市隼雄の大明神に御きせいあるへしとの告あり。天皇東山に向て御いのりありし処に、たちまちに鏑矢東山よりかふらのをとして西をさしてとひゆきぬ。大友の軍勢程なくこと~くほろひて、長沢と号する谷川の水、血になりてなかれしよりこのかた、黒血川と申とかや。かくのことくれいけんあらたなるによつて、天武天皇の御願として南當法性大菩薩を当国一宮にあかめ、いなは大ほさつを三の宮とあかめたてまつり、あつみのこほりを御神りやうとさため、則六所の神宮寺をこんりうし、毎年二月十六日より三十講をおこなひ給ふ。三月三日より同六日にいたる迄、四日の八講をつとむ。当軍内平田の東西以下、郷々八頭をつとめ、ほうへいいたし、しかのみならす八人のやをとめ五人のかくらおのこをさためをきて、日々夜々の御かくら断絶せす。みなこれ無双の神徳也。諸人あゆみをはこひ、子孫はんゑい福寿増長の利生にあつかる事、是あらた也。在世のそのかみは石上の神宝をつかさとり、すいしやくのいまはふりやくのみちをもとゝして朝家をまもりたてまつりたまふ神明也。
奉為天下泰平国土安穏万民快楽子孫繁昌寿福増長敬白


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# by ultramal | 2006-08-12 14:08 | 伊奈波

金華山物語

伝説の巻 清 信重

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代の石器、土器の類でも、これらを保存する能力に欠けている。いまでもドライヴ・ウェーの工事などで古墳らしいものにぶつかるが出土品としては見るべきものがすくなくない。
 山の古さは日本創生に時を同じくするが、濃尾平野はまた陸地として、一番若い地質に属している。これは木曾、長良、揖斐の三川が山から運んだ流砂土から出来ており、かつは今現在進行申の過程でもある。かっては濃尾平野の大部分は伊勢湾に属していた。養老郡の城山には貝塚があり、人間時代のある時この辺が淘辺であった証拠を提出している。つまり金華山のふもとは海岸だった。岐阜付近の侯説に「稲葉山から赤坂までを七里の渡しと呼ぶ」とおりまた鏡島乙津寺伝には「鏡島はもと、乙捧島といいしを弘法大師が鏡を海中に投じて陸にした」ともいう。


    ×     ×


 太古の山には名はなかった。やがて人が住み、書かれた歴史の時代になると、ぼつぼつ名がでてくる。この山の名を古くは「いなば山」とよんだようである。
 「いなば」 というのは必ずしもここだけではない。「いなのばの白兎」の伝説は海を渡るのだからここのことではない。たから古い記録にでてくる「いなば」もよく吟味してみる事が必要てあろう。
 
  たちわかれ  いなばの山の峰におふる
  松としきかば いま帰りこむ


というのは百人一首に出てくる在原行平の歌であるが、これがこの山をいうとの説がある。これには異説もあるから行平にきかねばわからないが、それ以後の歌には「不被の関」と一緒に読みこんだものもあり、それからみてこの名の古いことを知ることができる。この「いなば山」に対して、ほかに「金花山」「一石山」「破鏡山」「岐山」たどの名もある。それらに関する伝説を列記しておこう。


 仁明帝のころ、申納言在原行平は天皇の命によって、陸奥の国から金化石をひかせて美濃についた。この時、蔵王権現の神託により、石をそこにおいたまま行平は京へ上った。その後この石を金大明神という。

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 金神社縁起には次のようにいう―景行天皇のころ、三種の神器のひとつ「むらくもの剣」が夜になるとぬけだす。うらないによれば「奥州に金石あり、これに心をうばわれて」というので、この金石を京都へとりよせることになり、イニシキのミコトが奥州に下向。来てみると同形の石八個があつて、どれが金石かわからないが亡き母君の教えで鏡を当てると、金石は鏡を破るという。これによって金石を得、かつがせて京都に向うことになった。この間天皇につげ口をするものがあり、京都からはミコトを討つための軍が出るの始末だ。美濃へ来たときこの金石を椿原(今の丸山)におさめて合戦におよんだ。その時、石はたちまち三十六丈の山となりミコトと若宮はこの山に入り行方はわからなくなった。天皇はこの始終をきかれ、椿原金山のふもとに社殿をつくり給うた。これが伊奈波神社の始まりであると
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 ほかに一石山に関して --むかし雄総に男あり、父から勘当されて、諸国を放浪し奥州の金華山において後悔し記念の石を一個持ち帰ったところ、父はこれをウソだとののしって、力まかせに投げた。石は人にふまれるのをきらって、一夜のうちに山となったという。
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いずれも奥州の金華山に関係あるようなそぶりがあるのは、どうしたことか。奥州金華山の名はすでに高く古いということはいえそうてある。
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# by ultramal | 2006-08-12 13:58 | 伊奈波

湯沐邑



村国連男依(乱後の論功行賞で連姓を賜つたといわれる。)
小依、雄依とも書かれるが、当時の三野の国各牟評村国の里、後の『和名類聚抄』にみえる美濃国各務郡村国郷つ青現在の岐阜県各務原市東部地区を本拠地とした小豪族からの出身である。身毛君広は、牟宜都君比呂ともみえ、現在の美濃市から関市にかけてを中心にした、中濃北東地域の伝統的な地方豪族からの出身である。また和珥部君手は、丸部臣(わにべのおみ)、和爾部臣とも書き、その本拠地はいま一つ明確ではないが、「不破道」をはさむ西美濃地方から滋賀県東部地域の坂田郡あたりのいずれかと推測される。三人の舎人等は・特命により、湯沐令の多臣品治と緊急に連絡をとるとともに、彼等の出自を生かし、同族および近隣諸氏に働きかける役目を果たした。三人の舎人等は六月二二日に吉野宮滝を出発したが、四日後の二六日に伊世(伊勢)国朝明評家まで進んで来た大海人皇子に、男依が報告に来る。すなわち、「美濃の師(いくさ)三千人(みちたり)を発(おこ)して、不破道を塞(さ)ふること得つ」
 この「美濃の師三千人」とは湯沐邑およびその周辺地域から動員された農民丘士とみられる。出発の日から数えて、その往復の行程を考慮に入れると、ほとんど湯沐邑に着後一両日で動員したことになる。大海人皇子方の事前の準備万端であったことが伺われる。



湯沐邑
安八磨郡(味蜂問評)湯沐邑が乱の重要な意味を持つていた。当時は味蜂間評と書いたが、後に安八磨郡更に地名は二文字で書くようになって安八郡となった経過は前節でも触れた。このように日本書紀の記事もすべて、大宝令制下の表示になっていることが問題であるが、湯沐邑は大海人皇子の領地であつた。湯沐邑が大海人皇子の本拠地であるから、とにかく美濃へ向かわなくてはならない。近江から直接美濃へ向かえば、近江方にその意志が分かつてしまうし、他にも理由があったらしく吉野に向かい、鈴鹿の関経由という遠回りをして美濃に入ることができた。一説に、神武天皇東征の際、太陽を背にして南の吉野から入って大和を平定した故事に習ったと言われている。後の南北朝、後醍醐天皇も、神武、天武の先帝の故事に習って吉野へ向かったと言われている。
 
 大化二年一六四六一正月、いわゆる大化改新詔の第二詔に公地、公民がうたわれている。
「其の一に日はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、處處の屯倉、及び、別には臣、連、伴造、國造、村首の所有る部曲の民、處處の田荘を罷めよ。仍りて倉封を大夫より以上に賜ふこと、各々差有らむ。」(以下略)
 この改新詔の内容のとおりに実施されたのであれば、天皇や豪族の私有民、私有地はなくなったはずであるが、実際には、近江令、浄御原令、大宝令を経て実現されていく。改新詔第二詔の国、郡の制にしても同様であったことは前節でも触れた。壬申紀の中にも、処々にその残痕が見える。湯沐邑もその一とも言える。

 天皇に朝見するために、湯沐の村で体を清めてから天皇にお目通りするということ、入浴用、化粧料、あるいは調度を揃えるための費用としている。この二〇〇戸は公戸とは異なるので封戸に入るが、封戸とは一応区別しているという解釈である。一種の領地で、中宮と皇太子に対しては食封と言わず、湯沐と称した。「延喜式巻四十三 春宮坊の条」に「凡東宮湯沐二千戸」とあるのがそれに当たる。二〇〇〇戸というと、五〇戸=里(郷)であるから四〇里(郷)になる。平均的な郡で考えて三郡から四郡になり、小さな国なら一つ分、大きな国の半分くらいにも相当する広大な領地となるが、壬申の乱の時点で、必ずしも律令制と同数を所有したとは限らないし、安八磨郡(評)一ヵ所に集中していたとは限らない。
 『和名抄』によると、平安時代の内容ではあるが、安八郡は那珂、大田、物部、安八、服織、長友の六郷から成り立っている。安八郡から分割されたであろうとされる池田郡も六郷であるから、併せて一二郷。人口の増加も加味すると、いわゆる、壬申の乱当時の味蜂間評湯沐邑は一〇郷程度の規模と推察できる。
 湯沐邑の長官は湯沐令、多臣品治であった。。この多臣品治は『古事記』を稗田阿礼と共に書いた太安麻呂の父、あるいは近親者といわれている。湯沐邑の長官を湯沐令と称することは、大化前代の皇室の直轄領であるミヤケ(屯倉、三宅、官家等と書く)の長官が田領(田令)であったことを連想させる。
 「欽明紀十七年七月六日条。蘇我大臣稲目宿称等を備前の児鳴郡に遣はして、屯倉を置かしむ。葛城山田直瑞子を以て田令(たつかひ)にす。田令、此をば、陀豆歌毘(たつかひ)といふ。
欽明紀三十年四月条。膽津、白猪田部の丁者を検へ閲て、詔の依に籍を定む。果して田戸を成す。天皇、膽津が籍を定めし功を嘉して、姓を賜ひて白猪史(しらゐのふびと)とす。尋ち田令に拝けたまひて、瑞子が副としたまふ。」
 有名な白猪の屯倉の設置に関する記事である。大化前代、天皇の直轄領である屯倉において、戸籍が作られ、田令、福(正式名不明)の長官、次官がいたことが分かる。この田令は、大宝元年(七〇一)四月一五日条に「罷田領委國司巡検。」と見え、田令、田領と字は異なるが、白猪の屯倉の田令と同じ職掌を伺うことが出来るし、湯沐令の令は、郡の役人、大領、少領あるいは総して郡領と同じ意味に通じる。この田令が派遣された屯倉は、大化改新詔で廃止されたはずなのに、内容的に、あるいは地域的に異なるかも知れないが、とにかく大宝元年(七〇一)まで存統して来たのである。

<垂井町史 通史>

◎湯沐  とうもく
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# by ultramal | 2006-08-10 18:56 | 壬申の乱


南宮写真:http://ultramal.exblog.jp/2362219/

▼以下は『式内社調査報告第13巻』より
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# by ultramal | 2006-08-10 17:04 | 南宮

蓮の花

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# by ultramal | 2006-08-09 09:12 | 写真

台風の前



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# by ultramal | 2006-08-08 22:06 | 写真
取り持てる 弓弭のさわぎ
み雪ふる  冬の林に
飄風かも  い卷きわたると
思ふまで  聞きの畏く
引き放つ  箭の繁けく
大雪の   乱れて來たれ



まつろはず 立ち向ひしも
露霜の   消なばけぬべく
ゆく鳥の  競ふはしに
渡会の   いつきの宮ゆ
神風に   伊吹まどわし
天雲を   日の目も見せず
常闇に   覆いたまひて



柿本人麻呂
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# by ultramal | 2006-08-06 19:14 | 万葉集

山津照神社

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境内があまりに広いので驚いた・・・


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# by ultramal | 2006-08-06 12:28 | 息長氏

笥に盛る飯

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る   柿本人麻呂
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# by ultramal | 2006-08-05 23:13 | 万葉集

金華山弁財天信仰 メモ


宮田登 『ミロク信仰の研究』より (第一章 伝承態としてのミロク信仰 p57)

たどりついた天女が、麓の弁財天堂と、山頂の竜蔵権現にまつられたと伝えられる。この竜蔵権現は、真言密教と関連を持つ十一面観音の垂迹としても知られる。興味深いことは、古川古松軒*が聞伝えに、「山上には天竜大権現と号して弁財天をまつるともいい、また蔵王権現を安置せるともいう」といっていることで、現在神社側の史料からは容易にうかがうことができない修験の関与の一端がここに示唆されている。

*古川古松軒 『東遊雑記』巻一〇
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# by ultramal | 2006-08-04 12:22 | 白山神社

和良の戸隠神社

和良まで足を運びました。

http://www.warakankou.com/kankospot-iwa.html
http://shizennomori.ciao.jp/gujyou/nanbu/wara/kasaneiwa/kasaneiwa.htm


雷を呼んだのか、一時大雨にあいました。
↓写真は雲の切れ間から・・・
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ちょうど太陽が顔出しました。
三角の雲の合間から太陽が見えました。アマテラスの登場!?
雲の切れ間は、鍵穴のように見えました。

電池がなくなって、写真ありません・・・(^^;
(戸隠神社)

重ね岩以外にも岩石巨石群がごろごろしてました。
吉野の岩神神社を思い出した。


明宝のあたりだったかな、馬の産地だったらしく、そんないわれも残ってました。
 "名馬 磨墨"
上の写真は、なんだか馬のようにも。
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# by ultramal | 2006-08-03 23:28 | 白山神社

寒水白山神社


  写  真

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# by ultramal | 2006-08-03 22:07 | 白山神社

蛇岩公園


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蛇岩(寒水)
 
 養老年間に、深谷から見座にかけて、大蛇が棲んでいて人々を悩ました。たまたま、鳥帽子岳で修行中であった泰澄は、白山を切り開こうと思い立たれて、山を下つ、深谷口へさしかかられた。その時、大蛇が、大石の上で焔を吐きながら、もがき苦しんでいたので、泰澄は、ねんごろに祈祷して、それを成仏させられた。大蛇は、腐れはて、永く石上に蛇形を残した。泰澄は、それから、峯伝いに神谷の絶高を降り、天ケ滝で泊まり、八幡を経て上保川を遡っていかれた。(寒水史)

 明治三十四年ごろ、道路の改修が行われていた時、例の蛇岩が、カンナリドチヘ落ちてしまった。そのまま歳月が流れて、昭和になった。たまたま、寒水から、他所に出ていた婦人が、身籠ったわけでもないのに腹が大きくなって、どうしても治らなんだ。困っていると、ある晩、その婦人の夢枕に蛇が現れて〈今、カンナリドチヘ落ちて、埋まっている。やるせなさにお前の腹を借りてはいったが、手厚く祀ってくれれぱ、お前の病気は治る〉と言った。その人が、蛇岩を揚げて、現在のところへ祀ったら、病気は治ってしまった。 (和田多喜談) -明宝村史-



明治末期の道路開設で破壊された蛇岩は誰にも気付かれず土砂と共に理没されていた。昭和代に寒水より岐阜に移住された石田花代と云う婦人があり。この人は身籠もった訳でもないのにお腹が大きくなって悩んでおられた。ある夜婦入の夢枕に大蛇が現れて「私はカンナリドオチで埋まって居るせつなさにおまえのお腹を借りて入ったが手厚く祀ってくれればお前の病は治る」と告げた。早速現場近くに住む和田梅平氏を頼り事の次第を打明けて調べたら天龍大神石蛇岩が発見され手厚く祀られた。快復。以来六十余年近住の人々は家内安全無病息災を祈り商売繁盛願望成就を希って供花の絶えた事はない。平成代になり道路改修のため移築される事となり梅平氏の孫にあたる和田昇氏を総世話人に蛇岩公園として整備された。同時に観音堂も建てられ尊像は近くに住む個人所有のものであったが天龍大神石にちなみ龍頭観音と広く世の中の平和と万民の幸せを願って祀られた。堂前の大石には古くより庶民に親しまれている弘法さまの足跡がある。修業中伊妙峠を飛び越えて気良村に移られる折に付けられたと伝えられる。  本分 細川義貞謹書

*参考 http://www.gifukoku.go.jp/mino/touge/038/body.htm

▼脇を流れていた寒水川
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# by ultramal | 2006-08-03 21:13 | 白山神社

両面宿儺の伝承

 

 武儀郡武儀町下之保の高沢観音(真言宗日竜峯寺)は、奇妙な縁起伝説を今に伝えている。それは、同寺の開祖とされる飛騨の両面宿儺による悪竜退治、救民伝説である。「奇妙」とはこれとはまるで逆の『日本書紀』(以下、『紀』と略す)の記述があるからである。

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# by ultramal | 2006-08-02 17:27 | 水 犬 鉄

伊勢神宮の起源

・・・・・・・・・・
 書紀の文章は「常世の浪の重浪」がうち寄せるという場所、つまり「常世」につづく海岸が条件となっている。海のない大和国内では「常世」という神仙思想とむすびつかないのである。おも「常世の浪がうちよせる東方(大和からみて)の是の国にわれは居らんと欲う」という言には、神仙思想のみがあるのであって、太陽信仰はみられない。
 また、右の天照大神の託宣には、この伊勢の国を「傍国」といっている。「傍国」は倭人伝にも「其他芽国」と出ているように、わきにある国、地方の国の意味で、もちろん大和からみて伊勢が地方の国というのである。



伊勢神宮の起源
 
 では、どうしてそんな地方に皇祖神をまつる伊勢神宮を持っていったのか。書紀はその理由を崇神六年の条で説明している。天照大神とや倭大国魂(出雲系の信仰)とを宮殿にいっしよに祀っていたところ、両神は共に住むのを好まず、っまり仲が悪いため、国内に疫病が流行した。よって天照大神は大和の笠縫邑らに祭り、大国魂は三輪山に祭った。
 大国魂は大田田根子という出雲系の司祭がついてそこにおさまったが、天照大神のほうは笠縫うだ邑には落ちつけずに、倭姫命の捧持で、菟田、近江国、東美濃をめぐって伊勢国に入り、(前記)の「伊勢国は常世の浪の」という託宣となって)五十鈴川の川上に斎宮をたてた。「これを磯宮と謂ふ。すなはち天照大神の始めて天より降ります処なり」(垂仁紀二十五年)。
 まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
 これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
 そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰) まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国丙に祀られずに転々と流れて伊勢に鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぷんの領内にこそまつるべきだからである。
 これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオクニヌシの霊神)で占められているため、あとから大和に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内にその祖霊を祀ることができなかったからである(第二巻『空白の世紀』参照)。
 そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰)の宮である。斎宮を磯宮といったのではなく、磯宮に斎宮が宿かりしたのである。
 伊勢湾の沿岸は漁携生活煮いわゆる海人族の根拠地であった。いまの三重県度会郡の地はもと「磯」といったらしい。国名のイセ(伊勢)もイソ(磯)からきているようである。イズズ(五十鈴川)の名も、イソから出ていると思われる。イソツ川一磯津川。津は助詞の「の」)=イセツ川だったのを後世に神話じみた「五十鈴川」の字を宛てたのであろう。
 この磯の地一帯を支配していたのが礁携生活集団の首長の度会氏である。この度会氏一海人族一の共同神が磯宮である。
 柿本人麻呂の長歌にある「渡会の斎の宮」(『万葉集』一九九)というのが、度会の磯宮に天照大神の斎宮が宿かりしていたときの姿を浮かばせている。これを大海人皇子が壬申の乱で望拝したことになっている。
 ワタラヒ(度会)は朝鮮語のワタ(pata=海)からきている。海を横切るのをワタル(渡る)というのもこれの動詞化である。伊勢は「百船の度逢県」(『古事記』)であった。
 壬申の乱で大海人方に神威が加勢したというので、度会の磯宮にある斎宮が朝廷の崇敬するところとなり、伊勢神宮になった、と普通は説かれている。

内宮と外宮

 この磯宮は、朝廷がつくった伊勢神宮に内宮ができたとき、外宮となった。内宮が海岸から十数キロはなれた山の谷間の伊勢市宇治にあるのに対し、外宮が海岸に近い伊勢市山田にあるのは古いかたち一磯宮一を示している。
 では、朝廷はなぜ磯宮を内宮とせずに、それより格が一段劣る外宮にしたのか。それは度会氏の氏神ともいうべき磯宮一斎宮一をそのまま伊勢神宮に昇格させたのでは皇室の権威にかかわるので、天照大神がこの地に天降ったということにして新たに内宮をつくったのである。内宮の神官に朝廷は度会氏と拮抗する土地の中豪族荒木田氏(その祖は大和からきて土着し、成務天皇のとき、神宮の御料田を寄進した功で荒木田神主姓をたまわったという)を任じた。これは朝廷が伊勢神宮の前身が磯宮だというイメージを払拭することと、度会氏の勢力を削ぐことの二つの目的からである。
 度会氏は神宮ができたときから内宮・外宮の神事を独占したと、その古さを主張しているのにたいし、荒木田氏は内宮の成立当初から神事にしたがっていたと主張する。長いこの「論争」は性質上決着をみないが、度会氏は磯宮の斎宮が外宮になったときからの神事をつかさどり、荒木田氏はあとから内宮ができたときからの神官とみるべきだろう。荒木田氏の主張が外宮にふれないのはそのことを証するようである。
 荒木田氏は中央の中臣氏と結托し、系譜の上からも中臣氏の支流をつくっているが、度会氏のは中央貴族とは無縁の独自の系譜である(岡田精司『伊勢神宮の起源と度会氏』による)。このことからも度会氏のほうが土地の古い豪族、つまり伊勢湾漁携集団の首長の流れである。度会氏は「磯部」姓も名乗っていたことが『続日本紀』にも見える。磯部の姓は磯宮との関係でわかりやすい。
 外宮が内宮よりも古いと思われることは、伊勢神宮の大祭では、まず外宮から神饌供犠の祭りがはじまることでもわかる。これを神宮先祭という。荒木田氏はなんとかして先祭の特権を外宮から内宮に取ろうと図ったが、度会氏ががんとして拒絶してきた。いらい両神官家の争いは明治になるまでつづいている。
 では、天照大神が内宮に坐すなら、外宮はどういう神を祀っているかというと、豊受神が主座である。だが、この豊受神というのは系統不明の神で、『古事記』には登由字気神の下に注のかたちで「こは外宮の度会に坐す神ぞ」と書き入れてある。これは記のもとの文にはなく、後から挿入したらしい。
 豊受神というのは食物の神で、この場合は稲(米穀)の神さまということになっている。しかし、天照大神を内宮に持ってゆかれたので、やはり外宮は分がわるい。
 次に、伊勢神宮の設立を大和朝廷が東国経営の拠点にするためだったという説がある。この説の根拠の一つは、美濃・尾張・三河の各国に伊勢の神領があるというのである。しかし、これは伊勢神宮が朝廷の権威で大きくなるにつれて神領がふえていったのであって、武力経菅とは関係がない。
 またヤマトタケルが東国征伐に出発の途次、伊勢神宮の斎女をしている叔母のヤマトヒメのもとに行き、神宮を拝した(景行紀)というのが根拠の一つになっているが、これは参拝だけであって、ここを武力の根拠地としたとはない。それにヤマトタケルが伊勢神宮に立ち寄ったのは、「西の熊襲を討って帰るとすぐに東の方十二道の悪人らを平らげよと命じられる天皇は、わたしが死んだらいいとでも思っておられるのか」という不満と歎きを叔母に洩らす(『古事記」。書紀には無し)のが主目的だったのである。
 東国経営の根拠地とするには伊勢神宮のある場所は南に下りすぎる。東国平定は海路でなく陸路だから、熱田神宮のある名古屋あたりなら合点がゆくが、伊勢ではうなずけない。たとえば東国に軍隊を送るのに、伊勢湾を輸送船団が横断して渥美半島や知多半島に上陸させたという記事は見あたらない。すべて内陸寄りの道(東海道はまだできていない)で、その主要コースは美濃・信濃.毛野(群馬県)となっている。ここは古代の交通路で、中期古墳もこのコースに集中している。
 要するに伊勢神宮の設置は、海をもたない大和朝廷が東方の伊勢に海の宮をつくって祖廟としたということであって、それは西の瀬戸内海に漁携生活集団(安曇族)の共同祖霊である胸形(宗像)神杜と住吉神社とを信仰したのとなんら変わりはない。度会氏もまた阿曇族である(伊勢の潜水海女を見よ)。
 それがとくに伊勢神宮となったのは、前述のように中国の神仙思想の影響が強い。「太陽信仰」や「東国経営」をあまり過大視してはならないと思う。
 



『壬申の乱』 松本清張著 清張通史5
講談社 文庫 1988より
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# by ultramal | 2006-08-02 13:30 | 壬申の乱

伊富岐神社

  写真:http://ultra3040.exblog.jp/2533611/



祭神 4説あるとのこと・・・


イ).多多美彦命
   夷服(伊吹)岳神


ロ).八岐大蛇(伊吹山の荒神が化けた大蛇神)
   膽吹山有荒神 
   ↑たん、きも

   出雲にて素盞鳴尊に害せたりし
   八岐大蛇、天降り……毒蛇となりて不破関の大路を伏塞ぎたり。
   
     壬申の乱にて「不破の関」を塞いだのは大海人

   (ちなみに、天のヤチマタで道を塞いでいたのは、サルタヒコ命)


ハ).天火明命
   伊福氏の祖先は尾張氏と同祖 


ニ).鸕鷀草葺不合尊 ウガヤフキアエズ

▼資料(式内社神社報告第十三巻)
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# by ultramal | 2006-08-01 22:35 | 南宮