人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◎Ultraはウシトラのモジリ◎       


by うるとら

日撫神社

日撫神社_f0004379_11512263.jpg



祭神
少彦名命
應神天皇
息長宿禰


南東1.5kmに息長氏ゆかりの式内社の山津照神社がある。






由緒
延喜式神名帳記載の坂田郡五座名神小の内の一にして、創始の年代は詳かではないが、「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢需帝四世の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先を祀れるか」と、また「神社覈録」でも「祭神火撫直祖神歟」と記している。社伝および明治の神社誌によると、当地神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以って、皇后 此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に を建て、御父息長宿禰王及び國土経営と医薬に功ありし小毘古命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由来を説いている。
中古は、社領六百石を有し、朝妻荘内十一ケ村大社であり数箇の大伽藍と十九の社坊を数え、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の祟敬深く、村上天皇は宸翰の額を奉納され、特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、應神天皇を祀り給う、その時村人による角力を叡賢され給う。この角力が今日伝承され毎年奉納されている。また黄牛を奉納されたとも伝えられている。その他武門、武将の尊祟厚く、後小松天皇の應永年中、京極高光の建立せし伽藍等蛾ありしが、数度の兵燹に罹りまた織田信長の叡山諸院を焼亡するや、神官、僧侶等これをおそれて自焼し、古記録ことごとく焼失する。
社殿は、亨保八年(一七二三年)三月に再建され、拝殿等は寛政年中に落成されたものである。
明治十四年三月に列し、明治二十四年内務省より古社保存資金を受け、大正十年五月県社に昇格せられる。




日撫神社_f0004379_11544043.jpg

日撫神社_f0004379_11545745.jpg

日撫神社_f0004379_11551212.jpg


滋賀県坂田郡近江町顔戸(ごうど)77



古代豪族息長氏

古墳時代後期(5世紀後半から6世紀)、時の中央政権である大和朝廷に対し、大きな勢力を持っていたのが豪族息長氏です。その時代の豪族と言えば、蘇我氏、物部氏、藤原氏などが有名ですが、それらを中央豪族と呼ぶのに対し、息長氏は地方豪族と呼ばれ、現在、近江町を流れる天の川の右岸流域から長浜市南部にかけて本拠を構えていました。
 地方豪族で朝廷と深く関わったのはこの息長氏だけで、卑弥呼のモデルではないかとされる神功皇后をはじめ、何代にも渡って皇后を送り出してきた不思議な集団です。しかし、当時の文献などがほとんど残っていないため、その真相はベールに包まれています。なぜ、息長氏が大きな勢力を持つことができたかについては、近江町が美濃から東国、さらに北陸へ向かう道筋の交差点に位置したため、日本海経由の対外交易を有利におこない力をつけたのではないかと言われています。また、息長氏の始祖は水神のような存在の人ではなかったかとされ、水神祭祀儀礼を執り行うことで、朝廷との関係を深めていったとも考えられています。町内には息長氏ゆかりの古墳が多数点在し、県内でも有数の古墳群居地です。

http://www.sunrise-pub.co.jp/duet/65/65.htm
古代豪族息長氏より


▼朝妻湊
日撫神社_f0004379_15212563.jpg

by ultramal | 2006-08-01 20:37 | 息長氏